2008年から2013年にかけてアメリカで放送されていたドラマ、ブレイキング・バッド(Breaking Bad)。現在はNetflixで視聴することができる。

このドラマ、今年の1月2月あたりに一通り観たのだけれど、なぜかまたここ一週間ほど観てしまった。2周目だった。けど、1回目に劣らず面白かった。その感想を書き留めておこう。

ブレイキング・バッドを見ないと「人生の損」

そもそもなぜこのドラマを観ようと思ったかといえば、前回の日記でも書いた岩崎夏海の強い推薦によるものだ。2016年5月2日のブロマガ「『ブレイキングバッド』が素晴らしいたった一つの簡単な理由」ではこう書かれていた(BBはBreaking Badのこと)。

『BB』を見終わって思うことは、『BB』を見ない人生というのははっきりと損だということだ。『BB』を見た人と見ない人とでは、人生の質が大きく変わる。『BB』を見ない人生は、はっきりいって質が低い。それはつまらない人生だと断言できる。

あの岩崎氏がここまで言うのだから、もう見ないわけにはいかなかった。

……といっても、実際に見たのはこのブロマガから1年半後だったわけだが、それはいいとして、とにかくブレイキング・バッドは見た方がいいし、実際、えも言われぬくらい面白かった。続編となる(時系列としては前日譚の)ベター・コール・ソウル(Better Call Saul)も同じくらいか、それ以上に面白い。

キャラクターの服の色

いくつか断片的に、気づいたことや感想を書いていくことにしよう。今回、2周目に視聴して気になったのはキャラクターのテーマカラーだった。

初回の視聴時にも、主人公の義理の妹にあたるマリーが紫のものばかり持っているのは気づいていたが、他のキャラクターにも概ねテーマカラーが設定されていた。主人公ウォルターは緑、相棒のジェシーは赤、麻薬捜査官のハンクはオレンジ、ガス・フリングは黄色。

だが、意外なことに主人公の妻であるスカイラーには特定の色がなかった。名前が「スカイラー」なのだから、青色の服ばかり着ていてもよさそうなものだ。しかし、服の色も持ち物の色も一定しない。「なぜだろう?」と思いつつ、シーズン1を見終わった。

だが、そのあとに行くにつれ、疑問は解消された。スカイラーがウォルターの秘密を知り、自らも他の家族に嘘をつくようになると、スカイラーは緑色の服を着始めるのである。ウォルターは緑以外の服を着て、代わりにスカイラーが緑色になっていくのだ。

つまり、このドラマでは緑という色は「偽り」「秘密」「悪」を象徴する色として扱われている。スカイラーがハンクやマリーを騙そうと台本を用意して、ウォルターとともに「リハーサル」をしていたとき、彼女の上半身は黄緑の上に濃い緑を羽織るというダブルで緑色のコーディネートだった。

スカイラーはあとでウォルターと同じ立場に追い詰められていく。そのとき、緑色の服を着るようになる。だから、彼女にはハンクやマリーのような特定のカラーがなかったのだ。

「家族のために」は破滅に通じる

主人公ウォルターはガンにかかり、余命が短いことを知る。そこで、家族に金を残すべく、覚せい剤(ブルーメス)の製造・販売に着手する。彼の行動は、少なくとも意識の上では、家族のためにしたことだった。

だが、彼の計画は失敗する。殺人を犯してしまうし、秘密を隠すことで妻から怪しまれ、夫婦仲はおかしくなり、思った通りに事が運ばない。「家族のため」と言いつつ、結局はむしろ、家族から疎外され、家庭は崩壊してしまうのだ。

この作品の中には、他にも「家族のため」に行動する人が多く登場する。たとえばガス・フリングのもとで働いていた爺さんのマイク・エルマントラウトだ。彼は孫娘に金を残すために悪事を働いている。が、金は1ドルも残せず、ウォルターに殺されてしまう。

ブレイキング・バッドが含んでいるメッセージの一つには、「家族のために何かしてもろくなことにならない」というものがありそうだ。「家族のため」はやめた方がいいのかもしれない。

ジェシーは、最後にはうまく生き延び、木工細工をやっている姿が映されている。彼は最後まで死なず、しかも好きなことを仕事にできたようだ。おそらく、逮捕もされなかったんだろう。そのジェシーは、ただ自分が金を儲けるためにメスを製造・販売していた。これがよかったのかもしれない。

作品とは少し離れるが、そもそも「家族のため」という動機で何かをするのは、あまりいい結果をもたらさないのではないかという気がしている。男は妻や子供、家族のために働くものだという価値観もあるが、はたしてどうだろう? このような決まり文句は、作中ではガス・フリングがウォルターを薬の製造へ引き込むために言っていたが、ある種、「悪魔の囁き」なのではないか。

繰り返しのユーモア

テレビのお笑いで、いわゆる天丼というものがある。同じボケをかぶせるという、よくある技術だ。それがブレイキング・バッドの中でも頻繁に使われていた。

たとえば、ジェシーは何度もボコボコにされる。傷が治ったと思ったら、またタコ殴りにされる。また、ウォルターの車のフロントガラスが何度も割れる。特にこれが強調されているわけではないが、「またかよ」という感じで笑いを誘う。

基本的には重大犯罪を描いた作品のはずなのに、そういうところで笑いを取りに来る。非常にスマートだ。

日本のドラマや映画だと、あまり見ていないけど、笑いを取るときにはいかにも笑ってくださいというやり方が多くて興ざめする。変な顔、変な間の取り方、漫画的なリアクションに、漫才風のツッコミ。こういったわかりやすい演出ではなく、ちゃんと見ている人には伝わるくらいの笑いの取り方がブレイキング・バッドのよさでもある。

ブレイキング・バッドはテレビドラマなのに、語り口が完全に映画なのだ。とてもドラマとは思えない。一方、日本のドラマは説明的で、リテラシーが低い層に向けて作られている。なぜこんなにも違うのだろうと不思議になる。

デートシーンのような犯罪シーン

ブレイキング・バッドは、ブルーメスを作るシーンが美しい。ロマンチックな音楽に、美しい構図の映像、さまざまに工夫されたショットにより、まるでデートシーンのような雰囲気が醸し出される。金の回収や刑務所内での殺人といったものまで、美しく描かれるのだ。

普通、覚せい剤の密造シーンなんていったら、もっと暗くておどろおどろしいものだろう。だけど、ブレイキング・バッドではまったく違う。とても楽しくて、美しいのだ。

これが劇場公開用の映画なら、まだわかる。けれど、これがテレビで放送されて全米を熱狂させたというのだから不思議である。アメリカって、アメリカ人って、どうなっているんだろうと思う。

日本のテレビドラマといえばもっとほのぼのした感じのものか、犯罪が関わるとしても主人公は正義の側だ。基本的に、勧善懲悪である。犯罪を美しく描くなんてありえない。『万引き家族』でさえ、「万引きを美化するのか」といった意見が出るほどだ。

だが、ブレイキング・バッドは、これはハッキリそうなのだが、覚せい剤の密造を美化している文字通りの意味で、犯罪を美化しているのである。これが普通にテレビで放送されて、多くのアメリカ人が楽しんでいたというのが、日本人からすると理解できない。

これほどに、日本人とアメリカ人は感性が違う。

マイクがウォルターなんかに殺されるはずがない

これは個人的な好みの問題になるが、私はマイク・エルマントラウトというキャラクターが好きだった。おそらく年齢は65歳くらい。もはや爺さんだが、だれよりも強い。忍耐強くて、さまざまな道具を使いこなし、仕事は確実に遂行する。

だが、そんなマイクが後半でウォルターに殺されてしまう。もうブルーメスのビジネスからは手を引いて、金を持って遠くへ逃げようというときに、ウォルターに打たれてしまうのだ。私はここが納得いかなかった。

あのマイクが、ウォルターなんかに殺されるなんてありえない。なぜあの状況でウォルターから目を離した? なぜ警戒を怠った? なぜすぐに車を発進させなかった? いろいろと疑問や憤りが湧いてくる。フィクションの中のことなのに。

つまり、それほどまでに、私はドラマの中のキャラクターに好意を抱かされたということだ。マイクというキャラクターの造形に心を掴まれた。こんなことはなかなかない。ブレイキング・バッドの魅力は、こうしたキャラクターの造形にもある。

他にも、身を呈してかつての親友の仇を取りに行くガス・フリングの格好よさはしびれるし、ジェシーの恋人ジェーンはひたすらかわいかった。お調子者の弁護士ソウルも、指でベルを鳴らすヘクター・サラマンカも、怖がりでセクシーな極悪人リディアも、すばらしいキャラクターだった。

最後に

1周目も2周目も、私はブレイキング・バッド全話を1週間くらいで見た。すべて視聴すると52時間くらいかかるのだが、それでも1週間くらいで一気に見てしまった。というか、見させられた。

これが凡百のアニメやドラマなら「こんなことしてていいのか? 時間の無駄では?」と思うところである。が、ブレイキング・バッドを見ているとそんな感情は湧かず、心底充実感を得られる。むしろ、ブレイキング・バッドを見ずに、他に何をするというのだろう? これこそ、「生きている」と実感できる時間ではないか? それくらい、夢中になれる作品だ。

まだブレイキング・バッドを見ていない人は、人生を損している。何を差し置いても、この作品は見た方がいい。