しばらくお金のこととか仕事のことを考えていました。と言っても、来月の家賃や年金の支払いといった現実的なことではなく、生き方に関わる抽象的な問題について。

そろそろ私たちは、お仕着せの欲望・価値観から自由にならなければいけません。

お金を稼ぐのはいいこと? 悪いこと?

いま私の頭の中はだいぶごちゃごちゃしているのですが、話のとっかかりとしては「お金」から出発するのがよいでしょう。

さて、お金を稼ぐのはいいことでしょうか? 悪いことでしょうか?

もちろん、これには「よいこと」だと答える人が多数派に違いない。「犯罪をしなければ」とか「倫理に背かなければ」という留保が付くかもしれませんが、おおむね、お金を稼ぐのはいいことという方が多いはず。私もそう思います。

仕事でお金が入ってくるということはだれかに価値を提供しているわけですし、社会の一員としての役割も果たしている。ここはいい。

しかし、問題はこの先です。

たしかにお金を稼ぐのはいいことですが、「お金はたくさん稼いだ方がいいし、そういう人は偉い」という価値観を内面化してしまうのは危険なのです。

言い換えます。

収入が多い方が優秀で偉い。この尺度、ある種のスペック主義、偏った価値観に毒されてしまう危険性が、そこにはあるのです。

幸福とスペックの取り違え

人間はみな、幸福になるために生きています。細かく言えばここにも議論の余地はありますが、今回は深入りしません。とりあえず、幸福は私たちの目標です。

素朴に考えれば、幸福とはわかりやすいものです。動物的な欲求から、いくらか高尚なものまで、とにかく私たちの希望するものが手に入った状態が幸福であると言えましょう。

しかし、このすぐ先に不幸への落とし穴が待ち受けています。

他人が幸福であるか否か。その判断基準として、いくつかの指標が用意されています。たとえば収入の金額、恋人がいる、既婚か未婚か、子供がいるか、持ち家か賃貸か、学歴が高いか低いかなど。

これらの指標は日本人――あるいは全人類――が共通して持つ欲望の共通項です。多かれ少なかれ、ほとんどの人が希望するもの。それが抽象化されたものなのです。

そうして、抽象化されているがゆえに、すべてイエスかノーの二択、あるいは数値によって測れるようになっています。ごく単純な数直線上に、一列に並べられるような構造になっているのです。

こうしたいくつかの尺度は、近年ではスペックと呼ばれています。「あの人は一流大学を出ていて年収も高いし、おまけに高身長だからスペックが高い」みたいなかたちで。

さらに、人間をスペックで見るという態度は他人だけでなく、自分にも向いてくる。自分のスペックをいくつかの項目で採点し、それによって幸福かどうかを考えるようになっていく。いわば、スペック主義とも言うべき価値観が内面化してしまい、たえず自己へと向いてくるようになるのです。

ここが地獄の一丁目です。

スペック主義は大多数の人間を敗者にしてしまう

ここからはすでに何度か書いたお話です。

スペックで他人や自分を測るようになると、その評価基準はだんだん高くなってしまい、止まるところを知りません。

その評価基準は全国共通ですから、日本人全員がひとつの土俵で競い合うことになる。と、勝利者はごく一部となり、圧倒的多数の人は敗者となってしまうのです。

この仕組みに気がついたのは、学歴に対する評価を見たときでした。

大学の難易度を表す偏差値というものは平均が50になるように作られていますから、原理的に、偏差値50以上の大学に入った人は受験戦争・学歴競争というゲームでは勝利者と言っていいはずです。

それなのに、偏差値50の大学は世間では軽んじられています。下手をすれば、偏差値55の大学を出ていても勝者とみなされないことがある。偏差値60前後のマーチ出身者ですら、「受験戦争の勝者」として見られなかったりする。

これは明らかに奇妙なことです。

なぜこうした不合理な現象が起こるのか、そのメカニズムについてはここでは追求しませんが、事実としてそのような偏った見方が生じています。もちろん、学歴だけではなく他の多くのスペックにおいて。

すると、平均くらいの成果が出ていたり、むしろ平均よりだいぶ上であったりしても、自己評価としては敗者の意識が刻まれてしまいます。本来なら十分な結果を得ているにもかかわらず、自分は不幸であると思ってしまう。

「自分が不幸だと思う」とは、すなわち、「不幸である」と同義です。

スペック主義の先にあるもの

スペック主義が内面化してしまう。これが地獄の一丁目。

それから、相対的には勝者に属するはずなのに、さらに上と比較して不幸を感じてしまうようになる。これが地獄の二丁目である。

とするならば、地獄の三丁目はどこにあるのか? それは自分の幸福を見失うことです。

スペック主義で他人や自分の表面を捉えるのはいいのですが、それだけに染まってしまい、他の価値観を持てなくなってしまうと寂しい。学歴に関しては学歴厨という便利な言葉がありますが、結婚厨・マイホーム厨・年収厨になってしまっても悲しい。

本来、人間の欲求・欲望はさまざまです。スペックはほんのいくつかの、大多数に共通する要素でしかありません。けれど、他のものは社会の中で往々にして切り捨てられたり、見えなくなったりしがちです。

そうなると、人生の豊かさは圧倒的に縮小されてしまいます。スペック主義に陥ったあとでは、「幸福」になるための道はごく少数の精鋭にしか開かれておらず、大多数は最初から敗者になる宿命を背負っている。おまけに、勝利者になれたとしても、そこに豊かさはありません。

地獄の三丁目では、ごく少数の勝利者が狭い頂の上に立ち、下にうごめく圧倒的多数の敗者たちを見下している。そうして、叱咤激励の言葉をたえず投げかけている。――こんな光景が広がっています。

お仕着せの欲望から自由になる日

スペック主義が内面化されてくる。この現象を、私の主観から捉え直すと、このように言えます。

欲望と価値観を押し付けられている、と。

いい大学に入るべし。恋人を作るべし。いい会社に入るべし。高い年収を稼ぐべし。社会に生きる上で、個人はたえずこうした圧力にさらされることになります。これが、たまらなく不自由に感じられるのです。

もしこれが明白な義務や強制であったなら、まだしも抗う余地があります。かつて教師や親に虐げられた不良少年たちのように、盗んだバイクにまたがって、夜の校舎へ窓ガラスを割りに行く――そんな反抗ができる。

しかし、欲望と価値観を押し付けられると、これは厄介です。

まずもって、それが押し付けであると認識するのが難しい。押し付けられる欲望はわれわれほぼ全員が持つ共通項ですから、真っ向から否定はできません。押し付けとはいえ、自分の中にそうした欲望と価値観の芽――あるいは土壌――はあるので、全否定はできないのです。

「お金が欲しくないの?」

と問われれば、欲しくないとは言えません。なので黙っていると、その沈黙は即座に降伏の合図と見なされ、「じゃあ稼がなくちゃ」と、一足飛びにあちら側にひきずりこまれてしまうのです。

これはたまらなく不自由なことです。

順応を拒否することは攻撃とみなされる

欲望と価値観の押し付け。こんなものは拒否すればいいだけのようにも思われますが、残念ながら、事はそう簡単ではありません。

人間は、押し付けようとした欲望と価値観を拒絶されると、それを自身への攻撃と捉える性質があるようです。

個人主義の人であればこんなことはありませんが、往々にして、人は自分が身につけた欲望と価値観を共有できない他者に対して攻撃的になります。それは、自分が否定されたような気分になるからでしょう。

逆を考えればわかりやすくなります。人は、自分が好きなものを他人も好きだと、それだけで嬉しくなります。これは同じ価値観を共有でき、自分が肯定された気分になるから。

こうした性質は、人間が仲間とともに平穏に暮らすため必要なものではあります。『サピエンス全史』の中でユヴァル・ノア・ハラリがプジョーというフランスの自動車メーカーを例に出し、人類が幻想を共有することの重要性を説明しましたが、あの例のように、人間が幻想=欲望=価値観を共有することは生存のために必須な性質ではあるのです。

しかし、これが行き過ぎると不自由さを生むことになります。

かつては一個の部族の中だけで共有されていたものは、いまや日本全国(あるいは世界中)を一つの単位とし、猛威を振るっています。

自由になるためのほぼ唯一の道

このような不自由さを免れるためにはどうすればいいか? そのための道はほとんど一つしかありません。

それは、自分の欲望、自分の価値観を持つことです。

お仕着せの欲望と価値観はほどほどにいなして、あとは自分が好きなもの・好きなことを追求する。これが自由になるためのほぼ唯一の道です。

ここ数年、「好きなもので生きていく」という言葉が社会に浸透してきました。まさにここに、突破口があります。

さらに言えば、自分が独自の価値観を打ち出し、その道を進むことによって、他の人が付いてきてくれる可能性もある。自分がメディアを使って価値観を発信していけば、そのフォロワーが現れてくる。今は、そういう時代です。

欲望と価値観をただ押し付けられるのではなく、みずから発信していくこと。ここに、本当の意味で自由な生き方をするための端緒があるのです。

これはインフルエンサーになること、と表現することもできます。自分の考え方、価値観を広めていくわけですから、インフルエンサーとなることに他なりません。

ただし、一般的に今インフルエンサーと呼ばれている人は、自分の価値観を発信しているとは言い難い。むしろ、社会に浸透しやすい価値観を選んで、いわば価値観のマーケティングを経て、マーケット・イン(ニーズ重視)で活動している人がほとんど。こちらはむしろ、既存の欲望と価値観を強化する方向へ進んでいきます。

だから、そうではなく、プロダクト・アウト(自分発信)のインフルエンサーをめざすべきです。

このように言うとスティーブ・ジョブスのような超大物を連想するかもしれませんが、まったくそんなところまで行く必要はなく、ごく小規模でいいはずです。というか、規模など関係ない。わずか数人でもいいから、内発的な「好き」を共有できれば、幸福への道が開かれてくるはずです。

稼ぎ始めたら要注意

アフィリエイトやFXは、うまくすればたくさん稼げるようになります。月数百万、数千万と稼ぐ人がいる。

しかし、稼げるようになったときこそ、ここまで述べたリスクが極大化してしまうときです。お金を稼げるようになったという成功体験が、お仕着せの欲望と価値観をさらに強固なものにしてしまうから。

そうなると、その人は豊かさを失い、また別の人に不自由さを強いることになってしまう。これによって必然的に、多くの敗者を生み出す結果になる。本人も、本当に好きなものをますます見失ってしまうかもしれません。

そこで、お金を稼げるようになったときこそ、高収入=幸福という価値観に染まらないように注意したいものです。

もちろん、これは収入に限らず、その他の要素でも同じ。スペック的な発想はとりあえずの物差しとして使ってもいいけど、それに囚われてはいけません。

自分は何が「好き」なのかに向き合い、その「好き」を深く深く追求していく。できれば共感者を獲得できるようにそれを発信していく。これが、幸福を得るためのたった一つの方法です。