これは、いつ頃からあるのでしょうか。日本の大学を序列化し、同じくらいのレベルの学校を一括りにした言葉。すなわち、早慶上智にGMARCH、日東駒専に関関同立。

いまだ多くの人を夢中にさせるこの学歴神話について、大学を離れて数年たった今、もう一度振り返ってみたいと思います。

学歴ピラミッドの強固さに感心する

日本の大学は序列が固定化しています。トップに東大があり、次に京大があり、その下に旧帝大と言われる各地の大学がある。

私立では早稲田と慶応がツートップで、その下にGMARCHとか日東駒専で括られる大学があって、関西の私立大学としては関関同立があり、その下には産近甲龍という枠組みがあります。

この序列というのは非常に強固なもので、もう数十年も変わっていません。もっとダイナミックに、大阪大学が東大を抜かしてトップになったり、早稲田と日大あたりが入れ替わったり、近畿大学が同志社を抜かしたりなど変動があってもよさそうですが、ほとんどありません。

このピラミッド構造の強固さには驚かされるばかりです。

医学部や芸術系・宗教系はこの序列に収まりませんが、基本的に大学受験をする高校生・浪人生たちはこの序列においてなるべく上の学校へ行こうと努力することになります。ゆとり教育が実施されていましたが、その間も、基本的な構造は変わっていないでしょう。

なぜ学歴神話は面白いのか?

このような大学の序列は非常に面白いもので、日本人の多くが夢中になっています。テレビのクイズ番組では出演者の学歴が目立つように紹介されますし、親戚や知人の学歴話というのもよく耳にします。

では、なぜこれほど多くの人が学歴神話に夢中になっているのでしょうか。理由を考えてみました。

理由1:教育業界のイメージ戦略のうまさ

上で触れた早慶上智とかGMARCHとか関関同立とか、これらの言い方はどれも予備校など受験業界が考えて流行らせたようです。本来、校風も教育内容もバラバラなものを立地と偏差値だけでひとまとめにしているのが特徴です。

これにより入試難易度がすぐ把握でき、予備校でのクラス分けなどもしやすくなったでしょう。けれどそれ以上に、大学のブランド化が推進されました。

このイメージ戦略のうまさには舌を巻くものがあります。

理由2:議論を呼ぶちょうどいい曖昧さ

学歴ピラミッドは強固なものと書きましたが、一方で曖昧さも包含しています。

早慶上智と言われるけれど、国際基督教大学はここに入らないのか、GMARCHと関関同立はどっちが上か、地方の国公立大学と私立大学を比べるとどうなのか、議論を呼ぶ曖昧さがあちこちにある。

人間はそもそも境界線について議論するのが大好きですが、学歴ピラミッドにはこの欲求をちょうどよく刺激する余地が残されているのです。

理由3:大学をキャラクター化する楽しさ

学歴について話すとき、大学は校風によってキャラクター化されることがあります。早稲田はバンカラで、慶応はスタイリッシュだというように。「あの大学の学生はこうだ」と捉えると、学歴神話はさらに面白くなります。

実際には、よく言われるような校風とか学生の質の違いはそうそうないでしょう。しかし、昔からのイメージで大学を擬人化するようにキャラ付けすると、面白みがグッとアップします。

学歴コンプレックスの不思議

面白くて仕方がない学歴神話ですが、この影の側面についてもお話ししましょう。それが学歴コンプレックスです。

  • 本当は東大に行きたかったけど、早稲田止まりだった。
  • 慶応が目標だったけど、マーチに通ってる。
  • せめて日東駒専と思っていたけど、Fランク大学にしか行けなかった。

受験競争の敗者たちの怨念が、この国には渦巻いている。現役の学生ばかりではありません。卒業なら何十年経っても、そこから抜け出せない大人たちが無数にうごめいています。

偏差値によって明確なピラミッド構造ができあがっているがゆえに、東大より下の大学に進学した人は理論上だれでも学歴コンプレックスになりえます。いえ、東大生ですら、「本当は医学部に行きたかった」「法学部に行きたかった」と思っている人はいるでしょう。

さらに、不思議な現象ですが、学歴というのは全国レベルになればなるほど評価が辛くなるという現実があります。

たとえば私は地元のそれなりの進学校に行きました。偏差値62くらいのところだったのですが、合格した中学三年生のとき、周りからは「すごい」と褒められていました。

しかし、その高校の生徒の進学先でもっとも多いのは日東駒専です。とりわけ東洋大学が多かったと思うのですが、では、東洋大学の人が「賢い」「すごい」と評価されているかというと微妙なところがあります。あまり高学歴のイメージはありません。

東洋大学の偏差値は55。高校とは模試の受験者層が違うので、数値上は高校の偏差値62よりやさしそうですが、実際の難易度としては同程度のはず。なのに、世間的な評価はだいぶ下がります。

偏差値は、模試の受験者の平均が50になるように設計されているので、偏差値55は平均よりかなり上です。にもかかわらず、あまり高い評価を得られない。ここに学歴神話の歪みが現れています。

つまり、学歴を追求するこの競争においては、平均よりかなり上でも勝者として認識されない。こういう不幸なシステムなのです。

ごく一部しか勝者として認められない構造

きれいに序列化された大学のピラミッド構造の中では、ほんの一部の人しか勝者として認められません。

高校のように、あらかじめ地域ごとにセグメント化されていれば、公立中学の2位3位レベルで勝者になれる。しかし、全国での競争となるとそれだけでは不足です。大学受験でいうと、たとえばGMARCHであっても敗者として見られてしまうことがある。

冷静に考えればこれはおかしなことです。たとえば日大であっても偏差値は50を超えているので、十分に勝者であり賢さの証明になっているはずですが、なぜかそうは認識されていない。

しかも、日大より難しい大学の人が日大を見下すならまだしも、もっと下のレベルの大学出身者や高卒の人が日大をバカにしたりしている。これは奇妙です。

奇妙ですが、学歴競争のシステムにのっとる限り、ほとんどの人が勝利者にはなれないという事態が生じてしまうのです。

「学歴にこだわるな」は正しい

さて、こうした学歴にまつわり悲喜こもごもを前にすると、このように言う人々がいます。

  • 「学歴なんかにこだわるのはやめろ」
  • 「学歴なんかで人生決まらない」
  • 「どこの大学に行くかより、そのあと何を学ぶかが大事」

たしかに、どれも真実でしょう。学歴神話を一歩引いて見れば、そんなものはくだらない暗記詰め込み競争であって、人間の価値どころか、知的能力だって正しく測れてはいません。

だから、学歴にこだわったりコンプレックスを持ったりするのはやめた方がいい。これは正しいことを言っていると思います。

しかし、私は学歴にこだわることをやめたくありません。死ぬまでこだわり続けてやろうとすら思っています。だから、プロフィールにも同志社大学出身と書いているし、ことあるごとに声高に言っていこうと思っています。

なぜか? ここの理路は少し難しいのですが、説明してみましょう。

学歴にこだわり続けたい理由

「学歴にこだわるな」という人が、では次に何を持ち出すかといえば、それが就職先企業だったり職業だったり、あるいは年収だったりするのです。

  • 「大学名なんかに囚われることはない」
  • 「就活で逆転すればいい」
  • 「将来、たくさん稼げるようになればいい」

このようなことを言うのです。

しかし、お気づきでしょうか? 学歴を否定しておきながら、次には企業なり年収なり、ほぼ同じような構造を持つ評価基準を提示して、そちらのステージへ誘おうとしています。

この誘いに乗って、たとえば一流企業を目指したり、難関資格を取るためにがんばったり、年収を上げようと奮起したり、こんなことをしても結局は同一構造のものをたらい回しにされるだけなのです。

そんな終わりのない障害物競走に巻き込まれるくらいなら、いっそ学歴にこだわりつづけた方がまだしもマシなのではないかと思います。

形を変える優等生

大学に入ったら、あるいは卒業したら、学歴にはこだわらず次のステップに進む。そういう人は器用です。本当の優等生と呼びたい。

学生時代はがんばって勉強していい高校・いい大学に行き、いざ大学に受かったら「学歴だけがすべてじゃない」とサークル活動や就活をがんばる。社会人になればなったで、また与えられた課題をこなしていく。

これぞ、本当の優等生というものです。

しかし、実際のところは常に与えられたシステムに適応して、そのルールの中でいい成績を取ろうとしているに過ぎない。主体性は感じられません。

「学歴だけがすべてじゃない」と言う人は、学歴神話を否定して主体的に生きようとしているように見えますが、実際はまた少しバージョンの違うゲームに移ったというだけで、本質的には何も変わっていないのです。

学歴ゲームのあとには就活ゲームと年収ゲームがご用意されていますが、結局、大学名が企業名に、偏差値が年収に置き換わっているくらいで、さほど目新しさはありません。いっそまったく趣向の違うものがあればまだいいのですが、大差ないのです。

年収ゲームに巻き込まれたいのか?

ここでネットビジネスの話に繋がるのですが、稼いでいるアフィリエイターはよく自身の月収をアピールして、「あなたも稼ぎたいでしょう?」と誘惑してきます。そして、面白いほどこの誘惑に惹かれてしまう人たちがいる。

そこで飛び出す目標が「月収100万円」なのですが、ちょっと待ってほしい。

その数字には何か根拠があるのでしょうか? 月に100万円が必要なその内訳を説明することができるでしょうか? 十中八九、根拠はない。「偏差値65以上の大学に行きたい」というのと同じノリです。

あるいは「自由な生活を手に入れたい」と言うけれど、その自由の中身とは何か? 何がしたいのか、具体的に決まっているのでしょうか? 高校生が夢想する「自由なキャンパスライフを謳歌したい」みたいなあやふやな目標と同じではないか。

大学受験の文脈でも、「結局は自分が何がしたいのかが重要」と言われますが、これはビジネスでも同じです。そこを見誤ったままだと、仮にネットビジネスで稼げるようになったとしても、また次のゲームに移行するだけか、あるいは退屈を持て余すだけになってしまうはず。

自分が本当は何をしたいのか? 収入で言えば、何のためにいくら必要なのか? ここを考えない限り、イメージ戦略とマーケティングに長けた香具師に踊らされ続けることになるでしょう。

主体的に生きるにはどうすればいいか?

他人に踊らされず、主体的に生きるにはどうすればいいか? なんだか大仰なテーマになってしまいましたが、話の流れ上、触れないわけにはいきません。

まず、主体性を獲得するには、自分の価値基準を持つ必要があります。だれかが設定した評価基準、ブランド、数値目標みたいなものを一旦リセットして、自分の基準で物事を見る必要がある。

では、自分の価値基準を持つにはどうすればいいかといえば、自分の好きなことが何かを自覚することです。何かが好きということは、その好きなものは自分にとって大きな価値を持つわけなので、それが基準として使えることになります。

その好きなことを追究して行くには何が必要か? 自分は何をすればいいのか?

こうした順序で考えていけば、他人の用意したゲームに巻き込まれることは防げるでしょう。

まとめ

早慶上智にGMARCH、日東駒専に関関同立。私はこれらの言葉が好きです。とても魅力的でよくできた神話だから。

大学入学、あるいは就職したあとは「学歴なんか関係ない」と言いたがる人は多いのですが、それは多くの場合、また別の似たようなゲームへの移行にすぎません。

それにいちいち付き合うほど優等生になれない私は、いつまでも学歴コンプレックスの人間よろしく、学歴にこだわり続けようと思っています。

おまけ:Fランク大学に憧れて…

これはなぜかわからないのですが、自分の中にはFランク大学、ボーダーフリーの大学に憧れる気持ちが昔からあります。偏差値が付かないほどだれでも入れる地方の大学に、謎の夢を抱いている部分があるのです。

そこで何かしたいわけではないのですが、ついつい夢想してしまいます。

もしかしたら、こういうことかもしれません。私は中途半端に同志社大学に進学したけれど、もし本当に学歴など気にしない強い人間だったら、勉強などせず地元のFランク大学に進学していたのではないか――こういう思いがどこかに燻っているのかも。

いっそ、今からでもその辺のFランク大学に入り直して、「逆学歴ロンダリング」がしたいな、なんて空想をすることもあります。