日本で二番目にいい大学として知られる一方、奇人変人の巣窟というイメージもある京都大学。私はそこの学生、京大生がきらいです。全員ではないけど、いかにもな京大生がきらいです。

なぜ自分は京大生がきらいなのか? それは、彼らがどうしようもなく不自由だからです。

京大生は奇人変人というステレオタイプ

京大には、普通の大学にはないエピソードや風習じみたもの、特殊なイメージが付きまとっています。

廃屋のような吉田寮、歩道にならぶ異様な立て看板、コスプレが続出する卒業式……。変なものをあげればキリがありません。

一般的に、東大生といえば超エリート。それに対し、京大生はトリッキーな変人というステレオタイプが成立しており、現在でもほとんどの日本人がそんなイメージを共有しています。

私は同志社大学にいたのでときどき何かの用で京大のキャンパスに入ることもあったのですが、学生が水鉄砲を撃ち合いながら鬼ごっこをしていたことがあり、キャンパスの雰囲気と相まって、やはり同志社とは異質なものを感じました。

大学一二年生の頃こそ「京大生は変わってる」というそのイメージをただ受け入れていましたが、やがて実感し、気づいてきたのは、奇人変人をある種「演じている」京大生の不自然さ、不自由さでした。

変な人を演じる優等生

京都大学は、言わずもがな、偏差値の高い難関国立大学です。関西の高校を中心として、日本中の優秀な人たちが集まってきます。優等生、秀才、受験エリート。そんな人しか入学できません。

そのため、当たり前ですが、本物の奇人変人はほとんどいないはずです。学校の勉強をきちんとして、受験のための計画を立てて、得意教科を伸ばしつつ苦手科目もつぶし、試験日には時間通りに会場へ行く。

それが高いレベルでできていないと、京大生にはなれていません。つまり、常識人としての生活が当たり前にできるということが大前提。

ということは、どう考えても京大生の奇人変人ぶりはそのほとんどが演じられたものということになります。どこまで意識的なのかはわかりませんが、何にせよ、その演技じみた感じが好きになれません。

不自由で矛盾した京大生

ではなぜ優等生のはずの京大生が、全員ではないにせよ、奇人変人のふりをするのでしょうか?

一つには、東大生へのコンプレックスがあるかもしれません。高校までは非常に優秀だったけれど、京大はどこまでも二番手のイメージがつきまとう。となると、東大との差別化をはかって、「自分たちはただのエリートとは違うのだ」というアイデンティティを形成するという部分があるでしょう。

しかし、もっと有り体に言えば、世間に求められているイメージに応えようとしているから、ではないでしょうか。

起源については措くとして、とりあえず「京大生は変な人」というイメージはすでにできあがっている。結局はここにアジャストして、そういう京大生を演じているだけではないでしょうか。

たとえば、偏差値的に言えば大阪大学、一橋大学、東京工業大学もさほど変わりませんが、これらの大学にはコスプレ卒業式や異様な立て看板みたいなものはない(たぶん)。それは、世間に求められていないからでしょう。

つまり、京大生は「自由な校風」「放任主義」などと言われながら、実際には世間のイメージにみずからを合わせている、きわめて不自由な存在だということになります。

さらに言えば、自由を標榜しつつ、その自由というステレオタイプに縛られて不自由になっているので、思いっきり矛盾している。この矛盾のせいで、私は京大生がきらいなのです。

優等生の悲哀

高校生のあいだは「いい大学に行きなさい」というプレッシャーに晒され、がんばって勉強する。京大に入ったら入ったで「京大生は奇人変人」という世間の期待に応えようとする。

結局は外部が基準になっており、そこから抜け出す芽が見えてきません。なんだかそこに、優等生たちの悲哀さえ感じます。

最近ではあの廃墟のような吉田寮の取り壊しや歩道に出た立て看板の撤去に抵抗しているという話を耳にしますが、それも一見公権力への抵抗に見えて、実際にはみずからの演じているキャラクターを守ろうとしているだけに思えるのです。

本当に独創的な人はどこにいる?

京大生の奇人変人ぶりというのは、世間のイメージをなぞった人工物ですが、では、本当に自由な人、独創的な奇人変人はどこにいるのでしょうか?

おそらく、それは大学別に考えてもあまり意味がありません。強いて言えば、ネットで見かける面白い人には中央大学出身、または在学中の人が多い印象がありますが、基本的に大学受験は受験生を偏差値順にソートして、上から順に相応の大学へ割り振っていくだけなので、そんなに個性は生まれてこないでしょう。

ただ世間のイメージに合わせるだけではない、独創的で面白い、いい意味での奇人変人。それは大学名とは関係なく、むしろ中卒や高卒であるかもしれないし、まったく別のところから生まれてくるはずです。

終わりに

以前も学歴について書きましたが、今回は京大生という特殊なテーマについて考えてみました。今後も学歴とか大学の話というのは考えていきたいと思っています。

というのも、どうやら日本に住んでいる限り、学歴から自由になることはきわめて難しいからです。

「卒業してしばらくすれば関係ないだろ」と思っていた時期もありますが、著名な人が亡くなると、その短い生涯の説明は「〇〇県出身。〇〇大学を卒業後……」で始まるのです。そこそこ高齢の人でも、たった4年通っただけの大学を言われてしまう。

あるいは今も昔も、著名人が難関大学を受験するという企画は後を絶ちません。これは、そういう企画がずっと求められているからでしょう。受験とか学歴といったものへの関心は、私たちの骨の髄まで染み込んでいるようです。

であれば、そこから不自然に目を背けるより、継続的に考え続けた方が、世の中の流れや本質が見えてくるではと思います。