これからの世界で、私たちはどう生きていくのだろう? よくそんな大仰なことを考えます。しかし、ちっぽけな一個人がそんなことを考えてしまうほど、世の中の変化は激しくなっているようです。

そこで今回は、ふと閃いた新時代のクワドラント、すなわち、人々を四つに分類する考え方をご紹介します。

キャッシュフロー・クワドラントはご存知?

キャッシュフロー・クワドラントとはロバート・キヨサキ氏の著書『金持ち父さん貧乏父さん』に出てくる有名な考え方で、お金の稼ぎ方に着目して人間を4つの象限にわけた分類法です。

  • 労働者:Employee
  • 自営業:Self-employee
  • ビジネスオーナー:Business-owner
  • 投資家:Investor

これらの頭文字を取り、ESBIなどとも言われます。インターネットビジネスをしている人はYouTubeでこの話をしがちなので、一度くらいは耳にしたことがあるでしょう。

これはこれで合理的な分類ですし、経済的自由のために労働者から次のステップへどんどん上がっていこうという考えはいいと思うのですが、しかし、これは収入のみに着目したクワドラントでしかありません。あくまで、キャッシュフローのクワドラントなのです。

では、もし、これからの人間の生き方を分類するとしたら……?

ライフスタイル・クワドラント

生き方の総体に着目したクワドラントということで、これをライフスタイル・クワドラントと名付けましょう。それがこちら。

人はおそらく、この4種類に分類されていくと思います。

では、それぞれどのような生き方なのか、社会の変化を踏まえながら見ていきましょう。

労働者の落日

昭和はよい時代でした。労働者華やかなりし時代です。ほとんどの日本人がサラリーマンとなり、仕事に励むことで生きがいを感じられました。

たとえば駅の改札で切符を切る、電話回線を手動で接続する、データをコンピューターにタイピング入力する——今では人間がするまでもない仕事でも、仕事として成立し、お給料が出て、やりがいを感じることもできました。

しかし、この幸福な均衡はこの頃、急速に崩れてきました。

単純な作業は言わずもがな、割と最近までコンピューターには代替不可能と思われていた業務まで、人間の手を離れようとしています。インターネットとロボット、それからAIの出現により、労働の多くが不要なものになりつつあります。つまり、労働者が労働者でいる必要がなくなってきている。

これは「苦役としての労働からの解放」というポジティブな面もありつつ、一方で、働いていればお給料がもらえて社会の役に立てる、すなわち、世間的に認められ居場所を与えてもらえるという幸福な時代の終わりを意味しています。

もちろんすべての労働が消滅するわけではありませんが、これまでの労働観は崩れ、「額に汗して働く美しい労働者」といったあり方は失われていくにちがいありません。

消費者の憂鬱

労働者は、一方で消費者でもあります。働いて得たお給料でモノやサービスを買う。このお金の収支を通じたサイクルは全体としてひとつのものであり、片一方を切り離すことはできませんでした。

しかし、もし人間による労働が不要となり、おまけに何もせずともお金が入ってくるようになったらどうなるか? このサイクルを成立させていた条件が変わってしまいます。つまり、働いてお給料を得る必要はなくなり、消費するだけでよくなるのです。

「まさか、働かないでお金が手に入るようになるというのかい? ありえないね」

と思われるかもしれませんが、そうでしょうか。今すでにベージック・インカム(BI)についてはリアルに議論されており、私たちが生きているうちに実現する可能性もあります。AIとロボット、インターネットを使った効率化が続けば生産性は劇的にアップするわけですから、その分の富が一般大衆に、「元労働者」たちに還元されても不思議ではありません。

「金持ちが貧乏人に金を配ることはない」などとも言われますが、何らかの形でそういったトリクルダウンが起こらなければ消費者がいなくなってしまいます。それは経営者・資産家たちにとっても困った状況でしょう。

国家が福祉政策として配るのか、現金で配るのか、あるいは大企業が消費者囲い込みのためにポイント還元をするのか、どういった形になるかはわかりませんが、何らかの形でBI的なものが実現されるかもしれません(アフィリのセルフバックやポイントサイト、PayPayのキャンペーンなどはある種、企業版BIの走りと言えるかも)。

そうなったら、労働とは切り離された、純粋な消費者が誕生することになります。

働くことなく、ただ好きなモノを買い、好きなサービスを楽しむだけの消費者。これはつまり、ニートです。労働が不要になった世界では、純粋な消費者であるニートが大量発生し、おまけにこれが標準の生き方になる可能性があるのです。

いま現在、労働を苦しいと感じている人からすれば、それは夢のような世界にも思えます。働く必要はなく、ただ消費していればいいのですから。ですが、少し想像してみれば、それがいかに虚しいものであるかわかるでしょう。

消費というのは、ショッピングもレクリエーションも、労働がベースにあるからこそ光り輝くものです。ほとんどの人にとっては、きっとそうです。労働とのコントラストがなければ、消費は楽しくも嬉しくもありません。仕事一筋でがんばってきた男が定年退職を迎え、はて、何をしたらいいのだろうと虚しく時を過ごす。こんなことが、もっと若い人間たちに、同時多発的に生じるかもしれないのです。

貢献者という特権階級

単純な業務をこなしていればいいという労働者のあり方は、先ほど述べたように、崩れていくに違いありません。労働してお給料をもらえていれば、社会の役に立てる。その実感も持てる。この自明だった命題は失われていくことでしょう。

さりとて、ただの消費者としての生き方は虚しい。一時はよくても、すぐに飽きる。

そこで価値を増してくるのは貢献者という生き方です。だれかの役に立つ、困っている人を助ける、よりよい状態へ導いてあげる。こうした貢献者としての生き方が脚光を浴びるようになるでしょう。

繰り返しになりますが、かつては労働しているだけで同時にこの貢献者であることができました。給料をもらえる仕事をすることが、ただちに社会貢献であったからです。しかし、労働の価値がいちじるしく下落した世界では、いくらか様相が異なってきます。

貢献者になるためには、ある程度の才覚・能力が必要となります。他の人を助けてあげられるだけの何かがないと、貢献者たることは難しい。少なくとも、だれかの役に立とうという志、マインドがなければいけません。

逆に言えば、そういったマインドを持ち、能力も備えていれば、貢献者として社会の中で活躍することができます。だれかの役に立ち、感謝され、自分の居場所を見つけることができる。これは一つの理想です。もしかしたら、未来の貢献者たちはその対価としてお金は一切受け取らないかもしれません。他人の役にたつ充実感と感謝、これ自体が価値となります。

しかし、すべての人が貢献者になれるかといえば、これは難しいかもしれません。

必ずしも圧倒的な能力を持っている必要はないかもしれないけれど、少なくとも、他者への貢献、価値提供というマインドを持つことが、このライフスタイルを実践する必要条件となりますので、それが欠落している人は消費者としてしか生きられないということになる。これはこれで、隷従の生活と変わらないくらい厳しいものに思えます。

求道者という生き方

ここまでの3つしかライフスタイルがないならば、社会は新たな階級社会の様相を呈することになります。わずかに生き残った労働者と、大多数の不満を抱えた消費者、それから才気に溢れ賞賛を浴びる一部の貢献者たち。

しかし、労働でもなく、ただの消費でもなく、貢献をする必要もない生き方、求道者(ぐどうしゃ)という生き方もあります。

これは今後出現するライフスタイルというわけではなく、すでに存在しています。学問の探求、武道やスポーツの追究、絵画や文芸や音楽などのアート、こうした技芸に打ち込む人を求道者と呼ぶことにしましょう。

求道者は労働を旨とするわけではなく、その活動は消費でもありません。さらには、必ずしも他者への貢献を必要とするものでもありません。ただ好きなことをどこまでもやりまくるという生き方です。

私見では、求道は次の3つに分類されます。

  • 学問探求
  • 武道とスポーツ
  • 創作活動

歴史でも数学でも哲学でも、好きな学問をとことん研究する。知的な求道。これが学問探求。それから武道とスポーツはまさに「求道」という言葉にぴったりで、身体的な限界に挑戦する活動です。そして、音楽・小説・詩作・漫画・動画、あらゆる分野における創作活動があります(細かく言えば他にもありそうですが、ここでは代表的な3つにとどめておきます)。

これらの共通点はまず、終わりがないということです。これだけやったら終わり、ここまで行けば限界というゴールがありません。人類が滅びるまで続けたって、「もうやることがない」とはなりません。「世界中の貧しい子供たちを助ける」という社会貢献は貧しい子供たちが全員豊かになったらおしまいですが、求道に終わりはありません。

また、椅子取りゲームをする必要もありません。仮に、人間みながおなじ学問を研究したり、みなが空手道に邁進したり、みなが小説を書いたとしても、特に不都合はないのです。もちろん、学問でいえば教授職のポスト、創作でいえば読者・リスナーの取り合いといったことは起こり得ますが、それは付随的なもの。社会的地位やマネタイズを度外視すれば、活動自体が制限されることはありません。

さらには他者をそれほど必要としないという面もある。ひとりで昆虫の研究をしたり、正拳突きをしたり、ギターをかき鳴らしたりするのに、他人は必要ありません。たしかに武道とスポーツなら対戦相手やチームメイトが必要な場合もあるし、創作活動なら読者やリスナーが欲しいところですが、最悪、ほんの数人そういう人がいてくれれば何とかなる。一人もいなくても問題ないという種類のものもたくさんあります。これは、貢献者が必ず他者の存在を必要とするのとは対照的です。

私としては、労働がその必要性と価値を失ってゆく世界では、この求道者という生き方が理想であり、かつ、現実的に多くの人が取りうる選択肢ではないかと思うのです。

まとめ

2019年現在、日本社会では「労働者のままでいいのか?」という問題意識が高まってきています。そこでサラリーマンという生き方を脱し、自分でビジネスをやることが奨励されてもいます。しかし、このような流れはキャッシュフローに着目したものに過ぎず、その先のライフスタイルには意識が向いていません。ここにいつも不満を覚えるのです。「稼ぎ方で議論している場合なのか?」と。

もし労働をしなくてもよく、ベーシック・インカムが(もしくはこれに類するものが)支給されるようになったら、ただの消費者にはなりたくありません。多くの人にとってはそうでしょう。だから、だれかの役に立つための能力を磨きつつ、好きなものを追究する求道者としてのライフスタイルを模索していくべきではないでしょうか。