よもや、こんな時代が来るとは思っていませんでした。こんな大きな変動が起こるとは思っていませんでした。

どうやら、「働いたら負け」を標榜していたニートたちは正しかったようです。

役に立たない仕事の出現

中学生の頃、進路の話か何かのおりに、担任の先生がこうおっしゃっていました。

「人の役に立つ仕事をしたい、という人もいるけど、世の中の仕事はみんな何かしら役に立っているんだよ」

たしかに、目に付く仕事という仕事はみな何かのためになっている。詐欺や強盗などの犯罪を除けば、どんな仕事も役に立っている。

と、中学生の頃の私は納得していました。そして、20世紀末のあの頃、それは正しかったのかもしれません。

しかし、ここ数年で、役に立たない仕事が出現してきてしまいました。というか、正確には、前は有益だったけど今はそうでない仕事が増えてきているのです。

たとえばその代表例が、以前も書きましたが、コンビニの店員です。一見すると商品を補充したりお客さんをさばいてるのだから役に立ってそうですが、いいえ、もう少し広い視野で見るとちがいます。

彼らは安い賃金で働くことにより、経営者たちに猶予を与えてしまっているのです。店舗の無人化というイノベーション、あるいは設備投資を妨げてしまっているのです。延いては、日本の小売の生産性を低下させるという害をなしているのです!

銀行員もそうかもしれません。すでに業務は自動化できるのに、仕事をなくさないために人が動いている。こんな仕事が、今はかなり多いのではないでしょうか。

無意識に感じる虚無感

本来、自分の仕事はなくてもいい。いつでも自動化できる。むしろ、その方が絶対にいい。

こういうことには、働いている本人はあまり気づいていないかもしれません。役に立っているつもりなのかもしれません。「お金がもらえるということは、役に立っているんだろう」という単純な推理も働きますから、これがミスリードとなるかもしれない。

しかし、無意識のレベルでは「この仕事を人間がやる必要はないよな」と気づいているはずです。不思議なもので、たとえ知識や思考力が不足していても、人間、こういうことは感づいてしまうもの。

となると、働いていても虚無感に襲われるでしょう。あるいは、疎外感とか、無力感といってもいいかもしれない。

以前、私も百円ショップやコンビニでバイトをしていましたが、そこに渦巻くマイナスのオーラの渦にはすごいものがありました。そこを居場所とする大人たちの、何とも言えないクサクサとした雰囲気。その根底には無意識の自己否定感がありました、たぶん。

ニートたちの凱歌

かつて、「働いたら負け」というたった一つのフレーズで有名になったニートがおりました。たしか、ニート君などと呼ばれていたような。

この「働いたら負け」という言葉のパワーにはすさまじいものがあります。

あの頃、ニートたちはメディアで叩かれ、迫害されていました。働かないなんてけしからん。憲法が唄う労働の義務に反してる。税金を払っていない。働かざる者食うべからず、云々。

しかし、ブラック企業がたびたび問題視され、多くの人が無駄な仕事をやってることに薄々気づいてきて、いわゆる労働とは違うかたちの稼ぎ方が増えてくるにつれ、ニートたちの言い分が正しかったことが明らかになってきました。

いちいちだれかが「ニートは正しかったんだ」と声に出して言うわけではありませんし、かつてニートを叩いて視聴率を取っていたテレビが訂正して謝罪をするわけでもないのですが、これもやはり、無意識レベルで認識が変わってきている。

「ああ、やっぱり働いたら負けだったんじゃないか」と。

あともう少しこの認識が顕在化してくれば、いよいよニートたちの凱歌が街に響き渡ることでしょう。それがどんな形なのかはわかりませんが。

人生の楽しさとお金はあまり関係ない

ニートは正しかった。働かない方がよかった。と言いましても、お金の問題が出てきてしまいます。お金がないと、何かと不便なのは事実です。

たしかに、お金はゼロだときわめて不便ですので、必要はものではあります。ですが、逆に言うとこの一点の事実に気を取られ、その他の認識が歪められているきらいがあります。というか、そこが思考停止へ誘い込まれる罠として機能してしまっています。

たとえば、楽しいものというのは、それにかかるお金の額にほとんど比例しないという事実に目を向けてみましょう。

これはだれでもが知っているはずのことですが、よくよく考えると驚愕すべき事柄です。

たとえば、私にとって最上級に楽しいものに小説があり、その中でも太宰治『人間失格』があります。この最大級に楽しいものが、なんと文庫本で一冊309円で読めるという事実!

いえ、実はオンラインであれば309円すらも不要で、無料で読むことができます。

一方、仮にお金がたくさんあったとしても、それによって享受できる楽しさは限定的です。贅沢品を購入したり、海外旅行に行ったり、おいしいものを食べたり、いい部屋に住んだり、割と通り一遍のことしかできません。

もし楽しいことをしたい、面白いことをしたいと思うなら、お金を稼ぐということにフォーカスしすぎるのは危険です。むしろ、何かを楽しむためのリテラシーの高さ、面白いものを察知するアンテナの高さの方がはるかに重要になる。

私は今年4月から岩崎夏海クリエイター塾に通っていますが、この塾の費用は交通費と懇親会費を含めて1回あたり1万円ちょっとでしかありません。「投資の神」、ウォーレン・バフェットとのランチには3億円かかるらしいですが、私にとってそれ以上の価値ある機会が金銭的には1万円なのです。

この事実には然るべく驚愕し、その意味を考えなければいけません。

自律が最大の鍵になる

経済的な成功、つまり金持ちになるということは、それほど大きな意味を持ちません。なぜなら、お金がたくさんあったところで楽しみの幅自体はあまり広がらないからです。

そのときに重要となるのは自律(オートノミー)でありましょう。

これは経済的自立などと言われる「自立」ではなく、「自律」で、すなわち、自らを律するということ。自ら固有の価値観、何かしらの原理、基準を持ち、それに則して生きるということです。

だれかの意見や世の中一般の価値基準に従うことは、他律(ヘテロノミー)と呼ばれます。この先には本当の満足はありません。

しかも、外部の基準というのはきわめて曖昧なものです。同じ人物であっても、Aという場所では疎まれ蔑まれていて、しかしBという場所では尊敬の的だったりする。

となると、自分が何に価値を感じるのか、何がしたいのか、何が自分の幸せなのかを理解していなければ、人生の指針さえ持てないことになってしまうでしょう。

まとめ

世の中にある仕事の変容、ニートたちの凱歌、そんなことを考えてみました。

それにしても、世の中は難しい局面に突入したようです。かつては働いてさえいればだれかの役に立っているという実感が持てたのに、今は多くの仕事が不要となり、一部は害悪にさえなっている。

では、自分でビジネスに取り組んだり投資をしたりしてお金を稼げば幸せかというと、そうでもない。むしろ、幸福に必要なものは金銭よりも物事に対するリテラシーやアンテナの高さへとシフトしてきている。

この混沌とした状態を抜け出すには、おそらく個々人の自律しかありません。こんな困難な課題がすべての人間に課されるようになるなどと、いったいだれが想像できたでしょうか。