頭がいいとか悪いとか、能力が高いとか低いとか、人当たりがいいとか悪いとか、とかく人間は能力のことを気にします。

しかし、優れているとか劣っているとか、そんなことが果たしてあるのか? この頃、とても疑問に思えてなりません。

優秀な人とそうでない人

世の中を見渡すと、優秀な人とそうでない人がいるように見えます。メディアに出演して活躍するスターだったり、一代でのし上がる起業家だったり、世界的に注目されるスポーツ選手だったり、そういう人は優秀だとされています。

一方、そうでない人もいます。

理解力がなかったり、際立った才能がなかったり、創意工夫がなかったり、社会的に落ちぶれて借金まみれになっていたり。いわゆるダメ人間という人もいます。

しかし、本当にそこに優劣はあるのでしょうか。

歳をとればとるほど、疑問に思うようになってきました。

優秀な遺伝子という幻想

人間の能力の多くは遺伝で決まっていると言われます。どの程度かはわかりませんが、かなりの部分、遺伝に左右されるでしょう。

たとえば身長や体型、顔つきなどは親子でかなり似るわけですから、見えない部分もそのくらいの程度で似ていると考えるのが自然でしょう。人間は真っ白のゼロの状態で生まれるのではなく、かなり規定されて生まれてくる。

となると、優秀な遺伝子というものもありそうに思える。

たとえば筋骨隆々、ハンマー投げの室伏広治みたいな体に生まれたら、それはもう最初から超優秀で、ほかの人とは圧倒的な差がある。私などが仮に小さい頃から死ぬほど訓練をしたとしても、身体能力で彼を凌ぐことはまず不可能です。

それでも、室伏広治の遺伝子が優秀とまでは思えないのです。

というのも、すでに人間の……というか、全生物の遺伝子は長い歴史のなかで自然淘汰された、すでに気が遠くなる年月ふるいにかけられたものなのですから、その中で優れているとか劣っているという区別があるとは考え難いのです。

子供を多く作る個体は優秀か?

とりわけ疑問に感じるのはここ。

「子供を多く残せる個体は優秀である」

生物の目的を子孫繁栄だと考えると、子供をたくさん作れる個体は優秀だということになりそうです。

しかし、いま21世紀の世界に生きてる私たちはみな、だれかの子孫です。つまり、子孫を残せた個体の末裔なので、今さら子孫を残せない遺伝子などはだれ一人受け継いでいないはずなのです。

ややこしいので言い直しますと、私たちはだれ一人例外なく、子孫を残せるような遺伝子を受け継いでいるはずなのです。

聞いた話では、同性愛の遺伝子というものまであるそうです。考えると、奇妙なことだとは思いませんか。同性愛なら子孫はきわめて残し難いはずなのに、しかし、それが現代まで生き延びているのです。

これが事実だとすると、同性愛の遺伝子ですら、状況によっては子孫を残せた、つまり有利に働いたのだということになります。

人間の個体差は誤差の範囲では?

たまに聞く話で、「人間とチンパンジーの遺伝子は99%同じ」だというものがあります。これは異論もあるようですが、では、人間同士の遺伝子の差は?

これは約0.1%だそう。

おそらく、日本人同士だったりご近所同士だったりすれば、差はもっと少ないでしょう。それくらい、遺伝子で見れば個体差などほとんどないようなものです。

親子や兄弟ならもっと似ているのでしょうが、他人だって0.1%しか違わないんだったら、人類皆兄弟みたいなものではないでしょうか。

だとすると、「自分の子孫」を残すことにどれだけの意味があるのか、はなはだ疑問です。というか、別に意味はない気がする。だれか子供を作れる人が作ればいいだけで、自分の遺伝子を残すことにこだわる必要はない。だって、ほとんどだれのでも同じなんだから。

たとえば蟻は女王が子供を作り、働き蟻たちは自分では子供を産みません。巣を作ったり、女王に餌を運んだり、身の回りの世話をします。そういう役割分担となっています。

人間の場合も、ただ役割分担があるだけなのではないでしょうか。

すべては戦略の違い

ナマケモノという動物がいます。彼らは圧倒的に筋力が弱くて、すばやく移動することはできません。牙や爪で攻撃することもできません。トラなどに襲われれば、食べられて死ぬしかありません。

しかし、ナマケモノは高い木の上でわずかな食べ物を食べ、じっとしているだけで、この厳しい生存競争を生き抜いてきました。彼らの生物としての戦略は大成功を納めています。

「うわー、またあいつら食べられてるよー」

木にぶら下がりつつ、他の動物が捕食されてるのを見て、そんなことを思っていたのでしょう。いくつもの動物が絶滅していくのを、木の上から眺めていたことでしょう。

力が弱い。動きが遅い。これは、生存と繁栄という観点で見れば、決して劣った性質ではありませんでした。むしろ、これが功を奏したのです。

人間も同じではないかと思います。

一見、劣っているように見える人間がいる。知能だったり、身体能力だったり、社交性だったり、さまざまな面で他と比べて能力が低く見えることがある。

しかし、それは結局、広い視野で見れば戦略の違いでしかないのかもしれない。というか、おそらくそう。

絶対的に優秀な人間などいないし、絶対的に劣った人間もいない。だんだんそう思うようになってきました。

環境によって優秀かどうかは変化する

絶対的な優劣はありませんが、ただし、環境に応じて有利になる性質、不利になる性質というのはあります。ナマケモノも、環境に適応していたからこそ生き延びられたはずです。もし地球上に高い木がほとんどなかったなら、ナマケモノはとっくに絶滅していたに違いない。

人間の場合も同様で、環境によって相対的な優劣は変わってきます。

今はスポーツというものがあり、これが世界的な広がりを持っているから、室伏広治のような身体能力は高く評価されます。あるいは知的能力を試されることが多いから、頭の回転がはやい人、論理的な思考ができる人は重宝されます。

しかし、これが絶対的な優劣でないというのは、環境そのものが変化するから。

自然環境の変化は緩慢ですからいいとして、社会環境というのは劇的なスピードで変化していきます。とりわけ、ここ二十年ほどの変化はすさまじく、もはや数年後にどうなるかも予測できません。

余談ですが、中高生までは世の中の変わらなさに苛立っていたのに、今では変化についていくのさえやっとという有様になってしまいました。

こうなってくると、環境がどうなるかわからないので、どんな人物が優秀かもわからなくなってきます。

今はうだつの上がらない人物と思われていても、数年後には何か予想もつかない活躍をしているかもしれない。逆に、いま活躍しているスターが没落しているかもしれない。

書きながら気づきましたが、人間の優劣に疑問が湧いてきたのは、環境の変化が激しくなってきたからということもありそうです。

努力することは大切か?

絶対的優劣などない。環境によって優秀かどうかは変化する。

となると、こんな疑問が湧くかもしれない。

「常に変化に対応することは大事だし、努力できる人間は優秀なんじゃないか」と。

しかし、私はこれすらちょっと怪しいと思っています。

変化に対応すれば世の中で成功しやすいようにも思えますが、世の中は変化しそうで変化しないこともあり、その場合は変化しない人間の方が成功を収めます。

ベンチャーだフリーターだフリーエージェントだと、新しい働き方・生き方が注目されてきましたが、何だかんだ言って旧来の働き方をしてる人が幸せそうに見えたりもします。

あるいは努力についてですが、努力した結果失敗することもあるし、努力しないことで力を温存するということもありましょう。世の中には、無駄な努力というものもあります。

やはり変化への対応も努力も、ただ戦略の違いでしかないのではないか、と睨んでいます。

じゃあどうすればいい?

誤解なきように言いますと、私はいわゆる優秀な人が嫌いなわけでもないし、努力したくないわけでもありません。むしろ、努力することは好きです。

だけど、能力が低いと見られている人、努力してない人というのも、ただ軽蔑する気にはなれません。広いパースペクティブで見るならば、そういう人にはそういう人のよさがあり、生きている意味があるはずです。

「だれにでもいいところがある」なんて綺麗事を言いたいのではありません。いいところが一つもない人間だっているかもしれないけど、それは環境との関係か生存戦略の違いでしかないのではないか、というお話です。

だれもがクズだと思っていた人間が、十年後には注目の的になっているかもしれない。人間万事塞翁が馬。そう考えると楽しいではないですか。