ここ数年、よく思います。みんなやることがなくて退屈なんだな、と。どうやって時間を潰したらいいかわからないんだな、と。

目の前に延々とつづく空虚な時間、退屈。こいつを前にすると戦慄を覚えるほどです。

私たちはいったい、どうやってこの「厄災」に対処すればいいのでしょうか?

日本人にはもうやることがない?

あんまり口に出して言う人はいないし、そもそも意識できていないことも多いでしょうが、私たちにはどうやら、やることがないみたいです。

バブル経済あたりまでは、国民全体として、何かやることがあったのでしょう。明治維新にはじまり、海外への軍事的進出、いくつかの戦争、敗戦後の復興、高度経済成長などなど。

しかし、経済的に成熟して、文化的にも欧米に追いつき、分野によっては抜き去り、もはや100年以上にわたって日本人を駆動してきたものがなくなってしまいました。

今はさながら、日本人全員が終わりのない夏休みに入ってしまったかのようです。

宿題も部活も何もない、何をしてもいい時間です。望洋とした、まっさらな時間です。

やることがないから忙しいフリをする

こんなふうに思うかもしれません。

「退屈なんてとんでもない。毎日忙しく働いているよ」と。

たしかに、ブラック企業やら長時間残業やら、そういう問題もあります。あるいは、ワンオペ育児などといって、子育てに忙しいという話もある。

しかし、それらはむしろ、本質的にやることがないからこそ陥っている隘路のように思えます。

本当はもう、たいして働く必要なんてない。でも、働かないと何をしたらいいかわからない。そこで登場したのがブラック企業という「時代の徒花」で、経営者たちは人々の退屈な時間を安値で買い取っている。やることがないからこその、労働力のバーゲンセールとなっているのではないでしょうか。

最近、日本人は諸外国と比べて労働生産性が低いということが話題になりました。なんでもOECD加盟35カ国中20位、G7の中では最下位なんだとか。

これも、納得できる。

もし労働生産性を上げてしまったら、余計に労働する必要がなくなってしまう。つまり、やることがもっとなくなってしまう。そうなったら大変です。

労働は、退屈な時間を潰すための超有効な手段。生産性を上げるだなんて、言語道断なのです。

生きるために働く時代の終わり

生きるためには働いてお金を稼がなくてはならない。そう思っている人は今でも少なくありません。

しかし、これはほとんどの日本人にとってはもはや当てはまりません。

「働かないと食べていけない」
「就職しないとホームレスになる」
「いずれ餓死してしまう」

これらいずれも、古い時代の神話にすぎません。

いまは働かなかったとしても食べるものは手に入るし、ホームレスになるかならないかはその人の人間関係や生き方による部分が大きく、なりたくないならまずならないでしょう。

食べるものがなくて餓死するというのは、よほどの覚悟がないと難しい。

もし正規の就職をしなかったとしても、コンビニの深夜でバイトをすれば月10万くらいは稼げて、月10万もあれば何とか生活はできます。

まったく働かなかったとしても家族や親戚に養ってもらえることがほとんどでしょうし、完全にひとりだとしても生活保護がある。働かなくていい時代はもう来ているのです。

私はよく愕然とします。

だらだらとYouTubeを見ているときに、ペラサイトのひとつで1万円の報酬がぽんと発生する。一方、その日の昼食の値段が500円だったりする。

たった1件の報酬発生で、20日分のランチ代になる。

たしかに、1万円の報酬を得るのも簡単ではないけれど、しかし何ヶ月も前に作ったサイトからぽこっと発生した報酬が何十食分にもなっている。

別に、「だからアフィリエイトがすごい」という話ではありません。バイトだって、1日がんばって働けば1万円になる。

いったい、食うために働くというのはどこの世界の話でしょうか? 食うために働くというのは、完全に嘘です。

いま日本人が働いているのは、食うためでも生きるためでもありません。

退屈は人類史上最大の厄災かもしれない

人間は多くの困難と戦ってきました。なかでも大きいのが、飢餓・伝染病・戦争の3つです。

しかし、最近になってこの3つもほぼ克服してしまいました。

現在、世界中で饑餓のために死ぬ人はそれほどいないようです。もちろんいるにはいますが、それは飢饉のせいというより、然るべき分配ができない政治や経済のせいです。

伝染病も、一時期SARSだのパンデミックだのと心配されていましたが、どうやら封じ込められている。

戦争は、テロや小さな紛争はあれど、第二次大戦以降大きなものは起こっていない。これもどうやら、克服してしまったらしい。

一時期、人口爆発が憂慮されたこともありましたが、世界的な少子化によって、これも何とかなりそうという「希望」が生まれてきました。

こうなると、残された問題は退屈です。

19世紀の哲学者ショーペンハウアーは主著『意志と表象としての世界』(1819)の中で「退屈は人類最大の厄災となる」と書いていました。まだ普通に戦争があって、世界大戦すら経験していないあの時代にこう喝破していたのはさすがです。

あれから200年、まさに彼が憂慮していた時代が現実となってきました。

私たちは何をすればいいのか

無限の退屈に見舞われる時代に、私たちは何をすればいいのでしょう? これは難しい問題です。

レクリエーションや暇つぶし。とりあえず思いつくのはこれですが、しかし、こうしたものはメインの活動があってこそ意義のあるものです。

普段働いていれば買い物をしたり旅行に行ったりパチンコを打ったりなども楽しいでしょうが、これだけを毎日やるのはきつい。すぐに飽きるはずです。

では、人の役に立つことをするのはどうでしょう? ビジネスやボランティアで、困っている人を助けるというのは?

これは一見悪くありませんし、実際やりがいもありそうです。しかし、「役に立つ」という概念は相対的なものです。他人が何を求めているのか、何がしたいのかに依存している。

そういう意味では、「何をすればいいのか」という問題を他人任せにしていることは否めません。自分が何をしたいのか、何をやるべきなのかという問題に対して、「人の役に立ちたい」は問題の先送りでしかありません。

もちろん、やりたいことがある人はそれでいいのですが、ない場合はただただ外から供給される暇つぶしを消費するだけの存在に成り果ててしまいます。

創作活動しかすることがない

このように考えていくと、少なくとも自分にとっては、もう創作活動しかやることがありません。

創作は、消費と違って「飽きる」ということがまずないし、終わりがありません。さらに、その創作物によって退屈な時間という厄災を(一時的にですが)退治することができる。

これからはクリエイターという生き方がますます大きな価値を持つのではないでしょうか。