私は2009年から2015年まで、大学院で哲学の研究をしていました。しかし、博士後期課程まで行きながら、結局は退学しております。

なぜ学者の道から逸れたのかといえば、ひとつには大学院というものの体質に理由があるのですが、今回はそれについて書いておこうと思います。

大学の哲学研究は、もう終わっている……。

大学院の哲学研究科を中退したわけ

大学を出て、修士課程(正しくは博士前期課程)に進学し、それから博士後期課程へ。けれど、私は博士1年のとき研究に見切りをつけました。

その理由にはいくつかあります。最初の学会発表を終えたらもう研究に区切りがついてしまったということ、博士号取得をめざすとなったら小説を書く時間が取れないこと、金銭的に厳しい状況になってきそうだということなど。

それから、大きな理由のひとつとして評価基準が時代遅れでおかしいというものもありました。

哲学研究の成果・実力をはかる基準に、公平性・正確さが感じられなかったのです。これについて具体的に掘り下げていきましょう。

1:「業績」の測り方が古い

これは哲学に限りませんが、研究者の成果は「業績」によって計られます。この「業績」というのは主に発表した論文のことです。著書や翻訳も「業績」にカウントされますが、若手の場合はほぼ論文の数=業績といっていいでしょう。

研究を続けた結果を文章にまとめる。それを『〇〇哲学会』とかの学会に応募し、審査(査読)してもらって、OKなら掲載されて業績になる。この業績の数によって博士論文が提出できたり、大学のポスト(就職口)に応募できたりする。

しかし、このポイント制のシステムが納得できない。

このインターネット全盛の時代、なぜわざわざ紙媒体で学会誌を発行し、そこに掲載するしないを選別しているのか、よくわかりません。学会ごとにウェブサイトがあって、しかも原稿は電子ファイルで募っているのですから、希望者の論文はすべてオンラインで掲載すればいいはずです。

冊子で学会誌を出すしかない時代なら、文字どおり「紙幅に限りがある」ので、一部しか掲載できないのは仕方ない。ここに選ばれることに価値があるのもわかります。

ですが、データならオンラインで公開し放題ですから、もはやそんな評価形式にこだわる必要はないでしょう。古いやり方をそのまま踏襲しているという状態に、業界の行き詰まりを感じます。

2:指導教員の影響力が強すぎる

大学院では基本的に、一人の学生に一人の指導教員につくことになります。他の先生の授業も受けるし、研究のアドバイスをいただくこともあるのですが、基本的には特定の先生の弟子のような形となります。

しかも、この指導関係は変えることが難しく、「やっぱり他の先生がいい」とか「相性が悪い」といって変更することはできません。

すると、その先生からどう評価されるかが、その後の研究者人生を大きく左右することになる。この「左右する」度合いが大きすぎるのが問題です。

こういう状況だとパワハラも起こりやすい。少し前には早稲田大学の有名教授が女性の院生に「おれの女になれ」と迫ったという話もありました。たしかに、大学院という場ではこういったことが起こりやすいのは頷けます。

3:身内びいきの採用が多い

文系研究者の就職は、だいぶ前からかなり狭き門となっています。無期雇用のポストの倍率は数十倍から100倍以上とも言われ、採用は「宝くじに当たるようなもの」と言われることも。

しかし、宝くじは確率論ですが、大学の採用は身内びいきが多い。

私の出身大学の哲学科には現在9人の教員が在籍していますが、一人の外国人をのぞき、他8人がその大学(大学院)出身者です。実力を基準に採用しているなら全国各地の大学から集まってきているはずですが、外国人枠を除いて全員身内

この採用の仕方には、実力主義も多様性を求める姿勢も感じられません。

文系研究者にまつわるその他の問題

研究者の評価基準はもはや時代にそぐわないものになっています。それに加え、他にも哲学をはじめとする文系研究者についてはいくつかの問題がある。それについても考えてみましょう。

問題1:一人前までの期間が長すぎる

一般的に社会人になる人は、高校か大学を出て企業に就職し、そこで給料をもらいながら働くこととなります。しかし、研究者になろうと思うと大学卒業からが長い。

修士課程2年、博士課程3年。けど、博士課程を終えてすぐ博士号を取れる人はほとんどおらず、在籍期限である6年で取れる人も稀。だいたい30歳くらいで論文を書き上げて博士になれればいい方です。

さらにそこから、高校や大学で非常勤講師をしつつ、先に述べた「業績」を積み上げ、ポストへの応募を続け、40歳までに助手や准教授、助教授になれればラッキーです。つまり、まともに大学に就職して一人前になれるのが30代後半以降というありさま。一生なれない可能性もかなり高い。

この変化の激しい時代、ポストを得られるかどうかもわからない状態で10年も20年も雌伏の時期を過ごさねばならないというのは厳しすぎます。

問題2:非常勤講師の待遇が悪すぎる

大学に正規雇用されない若手研究者や、40歳を過ぎても正規教員になれなかった研究者はどうなるのか? おおむね、非常勤講師という形で大学の授業を受け持つことになります。

この非常勤講師、一見すると大学で教えている立派な先生ですが、実は給料はよくありません。1コマいくらという働き方で、労働者としてはパートの塾講師や家庭教師と変わらない。そこそこ働いたとしても、フリーター並みの収入しか得られません。

おまけに最近はこの非常勤講師の働き口も取り合いになっており、博士号を取ったのに大学で教えられないという状況も発生しています。

教授は年収1千万以上なのに、その隣で教えている非常勤講師は年収200万だったりする。民間企業でも正社員と非正規の格差が問題視されていますが、実は大学の中にそれ以上の格差社会が存在しています

これも健全とは言えない状態です。

哲学を大学でする必要はない

なんだか文系研究全般の話になってしまいましたが、テーマを哲学に戻しましょう。

大学という場はどうにも古い体質を抜け出せないし、評価も公平性を欠いている。がんばったところで待遇も悪い。となると、もはや哲学をする人間が大学という場にこだわる必要はないように思えます。

そもそも哲学は個人でやれます。本と脳みそさえあればいい。

哲学研究は大学でやるものというのがここ数百年のトレンドでしたが、ソクラテスはアテネの街角で勝手に若者を集めて話をしていただけですし、デカルトは軍隊に参加したり各地を転々としつつ著作の執筆をしていました。

また、私がもっとも尊敬するショーペンハウアーも大学の教壇に立ったのは若いときのほんの一瞬で、あとは親の財産を食いつぶしつつ一人で哲学に励んでいました。

歴史から見ても、哲学は大学という場所にしばられる必然性はまるでありません

語学や読解の技法は完全な独学では厳しいけれど、大学・大学院に属さずとも、たとえば非常勤講師に甘んじている有能な哲学研究者を見つけて、その人に個人的に手ほどきしてもらうことだってできる。

これから哲学の研究をしていきたいなら、お金は他で稼ぎつつ、研究は個人的に進めていけばいいだけのような気がします。

最後に

大学の哲学研究の何がだめなのか、いくつかの観点から考えてみました。メインはやはり、成果に対する評価基準のいい加減さです。

なぜだか紙媒体への論文掲載が「業績」と呼ばれ、特定の教員からの評価が人事を大きく左右し、その結果、大学には身内ばかりが固まるようになる。これは、あまり健全とは言えますまい。

では、もっと公平で、実力主義で、成果が正当に評価される仕組みが作ったらどうか? いわば開かれたマーケットで評価されるような仕組みを構築したらどうか? けれど、どうもそれも難しそうです。

なんなら、そうこうしているうちに大学から哲学科など放逐されてしまうかもしれません。役に立たない学問だということで文科省に潰されてしまうかもしれない。けど、それでもいいような気がします。

もし哲学という営みが続いていくなら、完全に個人でやるか、あるいは昔のソクラテスよろしく、小さなサークルを作ってそこでやっていく。このあたりが現実的かつ必然的な流れとなっていくでしょう。

……にしても、アフィリエイターはいい。何をするのも自由で、だれかに進退を握られることもなく、ウェブサイトは自由競争にさらされて、みなが実力で評価され、現金で見返りが返ってくる。こんなに風通しのいい業界はなかなかないでしょうね。