高校生の頃から、哲学が好きでした。デカルトとニーチェに始まり、ショーペンハウアーにどハマりし、大学は文学部哲学科に進学、そこからさらに博士課程にまで進みました。

最近では哲学書を読むこともなければ哲学的思考に耽ることもないのですが、あらためて、哲学に関する2つの素朴な疑問について考えてみようと思います。

疑問1:哲学を学んで何の役に立つのか?

まっさきに疑問に思われるのはここでしょう。哲学など学んで、何の役に立つのか、と。

法律や医学なら、これに対応した実用的な資格――司法試験と医師国家試験――があり、仕事に直結します。経済学や商学も、ビジネスをするのに使えそう。この他、多くの学問が何かしらの有用性を持っています。

しかし、哲学にはそれがありません。資格もないし、職業にも直結しない。「哲学者」は職業ではありません。

では、そんな哲学を勉強して何の役に立つのか?

答えとしては、直接何かの役に立つことはない、ということになりましょう。

そりゃそうです。神の存在証明やら魂の不死やら、あるいは芸術や宗教の役割について考えたところで、何の有用性にも寄与しません。お金も入ってこないし、会社で出世もしないし、お腹もふくれません。

そもそも哲学は、「役に立つ」という概念すら批判的に検討する学問なので、そのように問うこと自体がおかしいと言った方がいいでしょう。

「何の役に立つのか」という問いを発するとき、めざすべき目的はすでに自明のものとして前提されています。みんなが獲得したい、実現したいものが、言わずもがなのものとして想定されています。あるいは「役に立つものがよいものだ」と前提されています。

しかし、哲学はその前提を掘り崩す営みです。

ニーチェを考えれば明らかで、彼は当時広く流布されていたキリスト教と民主主義、つまりは大衆の価値観を徹底的に批判しました。「神は死んだ」と、挑発的なまでに既存の価値観を破壊しようとしました。

あるいはカントなら、最高善というものを人間の最高目標として掲げましたが、そこには幸福だけでなく、道徳も含まれていました(最高善=幸福+道徳)。つまり、幸福が唯一の価値基準ではないと考えたのです。大事なのは「幸福になること」だけでなく、「幸福に値する道徳的な人間になるべし」ということです。

カントに続くショーペンハウアーはと言うと、人間の生を「盲目的な意志に突き動かされるだけの混沌としたもの」と捉え、欲望の充足ばかりを求める大衆をシニカルに見ています。彼にとっての良きものは、芸術鑑賞によって得られる心の平静と道徳的発展の果てにある解脱(げだつ)のみでした。

というわけで、「哲学が何の役に立つのか」という問いは哲学の前ではほとんど無意味で、むしろ、その問いの背後にある価値観を批判するのが哲学の役割ということになりましょう。

補足:哲学が役に立つ稀なケース

と、以上が一つ目の疑問への一応の結論ですが、ちょっと例外的に哲学が役に立つケースもあります。

たとえばそれは、私の場合で言えばデカルトの「仮の道徳」というもの。これは生きていく上でもっとも根本的な指針となってくれています。

これは、デカルトが哲学を抜本的に構築し直そうとしたとき、その大仕事を成し遂げるまでのあいだ、暫定的にみずからに課した生き方のルールのようなもの。だから、「仮の」道徳とか、「仮の」格律とされています。

具体的に、その3つの道徳・格律をご紹介しましょう。

第一の格率は、わたしの国の法律と慣習に従うことだった。

わたしの第二の格率は、自分の行動において、できるかぎり確固として果断であり、どんなに疑わしい意見でも、一度それと決めた以上は、極めて確実な意見であるときに劣らず、一貫して従うことだった。

わたしの第三の格率は、運命よりむしろ自分に打ち克つように、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように、常に努めることだった。

どれも、私の根っこに染み込んだ考え方です。

いちばん好きな哲学者はショーペンハウアーですが、人生への影響という点では、このデカルトの3つの格律が圧倒的に大きい。

とりわけ二番目はすばらしい。生きているとさまざまな思いや意見に惑わされ、あちこちをふらついてしまうものですが、この指針があればもはや迷うことはありません。一度こうと決めたら、たとえ疑問がわいてきても、完全に見限るまでは従順であること。

いつも守れるわけではありませんが、ふと自分を省みて「いろんな人の意見に振り回されてるな」と感じたら、このルールを思い出します。すると、迷いがなくなる。

他の二つも含め、これらは何より役に立つマインドセットとなっています。私はつい、ネットビジネスで語られるマインドセットを白眼視してしまうのですが、それはこのデカルトの仮の道徳が秀逸すぎるからかもしれません。

興味がある方はデカルトの『方法序説』をお読みください。岩波文庫から出ていて、値段も安くて薄い本です。

疑問2:哲学とは何か?

「哲学って何の役に立つの?」と並んで多く出てくる疑問、それがこれでしょう。

哲学って、そもそも何? どういう学問なの?

これはなかなか一言で答えるのが難しい……と思ったのですが、いまちょっとググったら、非常に納得のいく的確な答えが出てきました。

人生・世界、事物の根源のあり方・原理を、理性によって求めようとする学問。

ブラボー。そう、あらゆる物事のあり方・原理を追求するのが哲学です。しかも、理性によって。

この記事を書く前、「哲学は個々の哲学者によって違うのだ」と書こうとしてたのですが、この定義ならすべての「哲学」を包括できているかもしれない。

ポイントは、「理性によって」でしょう。実験でも観測でもなく、つまりは経験によるのではなく、理性によって行うのです。

現代では科学信仰みたいなものがあり、「データは? ソースは? 根拠は?」ということばかり言われますが、哲学にそんなものはありません。まあ、感情や感覚刺激などの当たり前のものは考察の中に入ってきますが、基本は理性です。

逆に言うと、何らかのデータやソースが存在する場合、研究対象となる具体的なものがあるということですから、それは個別の学問として独立してしまい、哲学ではないということになりましょう。

ちなみにですが、カントの著書『純粋理性批判』は、扱う題材も理性で、「理性が理性自身を批判・吟味する」という本です。そんなことまでやっているのが哲学なのです。

補足:哲学は知のスポーツである

個人的には、哲学はスポーツにやや似ていると思っています。

スポーツは――観客をわかせるエンターテイメントや健康増進という面もありますが――基本的には身体能力を限界まで高めるという営みです。哲学は、それを理性で行なっている。基本的に生産性がなく、ほぼ役に立たないところもそっくり。

ただし、哲学にはこれといったルールがありません。

スポーツならそれぞれしっかりしたルールがあって、たまに変更はあるけど、おおむね選手たちはルールの枠内で競っている。一方、哲学はそれぞれの哲学者が独自のルールでやっているのに近い。

まあ、かといって何でもありというわけではなく、理性による営みである限り整合性が求められますし、変なことを言えば外部から批判も受けるのですが、ざっくり言うとそれぞれが固有の哲学をやっている、と言っていいでしょう。

哲学に救いなどない

哲学に関してぶつけられる代表的な二つの疑問。「哲学は何の役に立つのか」と「哲学とは何か」について考えてみました。

哲学にとっては「役に立つ」という概念自体が批判対象なので、イエスかノーかでは答えられません。また、哲学は世界のあり方・原理を理性によって解きあかそうという営みですが、その形態はさまざま、ということになりました。

しかし、ちゃぶ台返し的なことを言うなら、「役に立つなら哲学を勉強しよう」という方は最初から哲学を学ぶ必要はないでしょう。というより、求めているものは哲学という領域にはありません。おそらく、心理学か自己啓発をやるか、もしくは宗教に入った方がいい。絶対に。

逆に、人は死んだらどうなるのか、神は存在するのか、幸福とは何か、道徳を支えるものは何なのか、などなど、経験からは得られない事柄に疑問を抱き、そこから離れられなくなった方は、哲学せざるをえません。ええ、もう、逃れることはできません。

おまけに、哲学をして答えを得られるとも限りません。余計にわからなくなり、幸福からは遠ざかるかもしれません。

でも、それが哲学というものですから、仕方がありません。