この頃よく、死について考えています。死については子供の頃からよく考えていましたが、自分の中で3度目くらいになる「死・リバイバル」が起こっているので、これについて書き記しておこうと思います。

いつかは訪れる自分の死、これは、そう悪いものではなさそうです。

「死ぬのが怖い」は間違いである

「死について考えている」といっても、死にたいわけではありません。むしろ、長生きしたいと思っています。120歳くらいまでがんばってやろうかと思うこともあります。

けれど、死を遠ざけたいとか、死ぬのが怖いというのも違う。

死ぬこと自体は、本来、怖いことではありません。死に至るまでの苦しみがイヤというならわかりますが、これは死ぬこと自体の恐怖とはまた別でしょう。

「死んだらどうなるのか?」は昔から人間がよく考える問題ですが、宗教を信じている人は別にして、基本的にこたえは「わからない」です。いま生きている人はだれも死んだことがないので、知りようがありません。

古代ギリシャのソクラテスはすでにこのことを認識しており、「死後のことはわからないのだから、死を悲しむ必要はない」と述べています。だからこそ、自身も最期は毒杯をあおってあっさり死んでしまったというわけです。

彼が言いたかったのはこういうことです。自分が生きてる状態と死んだ状態を比べようと思っても、死んだ状態のことはまったくわからないのだから、どちらがいいとか悪いとか判断のしようがないということ。非常に論理的です。

「死ぬのが怖い」「死ぬのが嫌だ」というのは、死んだあとが生きてる状態よりも「悪い」と勝手に判断してしまっているので、これは間違いだということになります。

「生まれてきてよかった」も間違いである

同じ理屈でいくと、「生まれてきてよかった」というのも誤りということになります。いまどんなに幸せでも、生まれなかった方がよかった可能性はあるのですから。

もし自分の子供に「産んでくれてありがとう」などと言われたら、「おまえはなんで生まれた方がよかったと思ってるんだ? 生まれてない場合のことがわかるのか?」と説教してやりましょう。

逆に、「つらくて死んでしまいたい」と言っている人間も間違っているので、「君は死んだ方がつらくないと思っているのか? なんでそんなことがわかるんだ?」と論破して黙らせましょう。

どうせ死ぬのになぜ生きているのか?

人間はいつか死にます。しかも、そのときはそう遠くない。私はいま33歳ですが、おそらく50年後には死ぬ。早ければあと10年以内に死ぬかもしれないし、どんなに長生きしてもあと100年は難しいでしょう。

死んでしまえばいま持っているものも失われ、肉体も焼却されて煙と灰になり、おそらく意識も消え去って、つまりは何もなくなってしまう。

となると、何のために生きているのかが疑問になってきます。

勉強をしたり、働いたり、人の役に立ったり、友情や愛を育んだり、人生いろいろありますが、ゴールは死と決まっているのですから、なんだか虚しくなる。どんな学校に入ろうが、どんな仕事に就こうが、どんな人と友達・恋人・家族になろうが、どれだけ楽しいことをしようが、最後はお墓に入るだけですから、すべてが無意味に思えてきます。

しかし、「生きているあいだに楽しむことが大切」という考え方もできる。

どうせ死ぬんだから人生は無意味。これは「どうせ食べちゃうんだからどんな料理を作っても無意味」というのと似ていて、やはりおかしい気もする。料理を作るなら美味しいものがいいに決まってる。だったら、人生も楽しく充実していた方がいい。

いつか死ぬにしても、生きてるあいだは精一杯生きよう。人生を楽しもうじゃないか。――というのが一般的な落とし所でしょう。このへんで考えることをやめる人が多い。

だけど、ここでストップしてしまうのは、結局、死から目をそらしているのと変わらない。死についてはもっと考えを深めていく必要がある。

自分が死んだあとのことを考える

ところで、私はなぜか、自分が死んだあとの世界について考えてしまいます。死んだら自分がどうなるか、ではなく、自分が死んだあとこの世界がどうなっていくのか、ということです。

自分が死んだあとのことなんて知ったこっちゃないという気もしますが、なぜか心情的に気になってしまう。これは生の世界への執着というよりは、おそらく人間という種のDNAに組み込まれた本能のようなものでしょう。

もし人間が「自分の死後のことなんかどうでもいい」という生き物ならば、そもそも環境問題なんか議論されないはずで、「後は野となれ山となれ」という形で放置されるはず。けれど、私たちは将来世代のことまで考えてしまいます。これがホモ・サピエンスの本性なのでしょう。

私が死んだあと、自分に関するもので残るのは何か? 持ち物ははやいうちに処分されるでしょうし、独自ドメインのウェブサイトは1年以内にドメイン期限が切れてすべて消滅します。家族や友人、知人もそう遠くないうちにみんな死にます。

結局残るのは、無料ブログやSNSの投稿といった情報、同志社大学文学部書庫にある修士論文、国会図書館に保管された論文集ぐらい。会社がサーバーを整理したとき、同志社大学が廃校になったとき、日本国がなくなったときにはそれぞれ消えてしまいますが、しばらくは残る。

それから、小説も一応は残る。

自分の死後に残るのは、最終的には情報であり、主にはテキストということになります。ほとんどあらゆる痕跡は消えてしまうけど、小説を書いておけば――読まれるかどうかは別にしても――それはどこかに残る。

小説を書いている動機の一つには、死後に何かを遺したい。こういう欲求があります。

不死を手に入れられるとしたら?

人間はいつか必ず死ぬもの。どんなに長くても120歳くらいが限界。これが常識でした。

しかし、科学・医療が発達してきたことにより、もしかしたら人間は死ななくなるのではないか、などと言われています。

永遠の命を手に入れられるとしたら、欲しいだろうか?

ちょっと前の自分なら、迷わず「欲しい」とこたえていました。死ななくていいなら死なない方がいいし、永遠に生きられるということは人類の行く末・未来を見届けられるということで、知的好奇心をくすぐられるものもある。

普通だったら2100年の世界を見ることも難しいけど、永遠に生きられれば西暦3000年とか5000年とか1万年の世界が見られる。これは、ぜひとも見たい。SFみたいな世界を見られるかもしれない!

……と思っていたのですが、これにはひとつ重大な問題があることに気づきました。

死が与えてくれるインスピレーション

重大な問題とは、もし死がなくなってしまったら、死によって得られたはずのインスピレーションや想像力がなくなってしまうということです。

いつか死ぬ。みんな死ぬ。だからこそ、そこから得られるものがある。

死の予感というのはなぜだか美しいもので、もし人間に死が訪れなければゴッホやダリの絵も描かれなかっただろうし、ゲーテやヘッセの詩や小説も書かれなかったでしょう。私の好きなバンド・たまの楽曲や、桂枝雀の落語も生まれなかったはず。死がなければ、芸術のほぼすべては消滅してしまうに違いない。

もし永遠に死ななくなったら、そのとき人間は多くの能力を失うでしょう。文字が生まれたことで記憶力が衰え、文明化されたせいで身体能力が低下したように、死ななくなれば想像力や美的センスが著しく低下するに違いない。

はたして、そんな状態で生きていたいと思うだろうか? と考えると、答えはノーです。

というわけで、永遠の命は魅力的ですが、私はいつか死ななければならないということになりました。

近づいてくる死を出迎える

いつか死ぬいつか死ぬ、と言っていますが、考えようによってはすでに「死につつある」とも言えます。年を重ねるにつれ、視力は低下するし、筋肉は硬くなるし、虫歯にはなるし、頭痛がするようになるし、ちょっとずつ老いている。

まだ多くは回復可能だし、努力次第で身体機能をアップさせることもできますが、それでも確実に老いは来ているわけで、これはちょっとずつ死んでいるようなものです。

この近づいてくる死を、何としても遠ざけるべきなのか? と言えば、そんなことはありません。体調不良とか怪我や病気にはできるだけ抗うべきだけど、何がなんでも老いないようにしようとか、不調を許さないとか、そうムキになる必要はない。

なぜなら、死は芸術的なインスピレーションと想像力を与えてくれるから。

だから、近づいてくる死に徹底抗戦の姿勢をとるのではなく、致し方ないものはやさしく出迎えてやる。これくらいの気持ちでいた方がいい。どこかに不具合が生じたら、「お、また死がやって来たな。ようこそ、いらっしゃい」というおおらかな気持ちで出迎えてやりたい。

死ぬのが楽しみとは言わないけれど

死について考えていることを書いてみました。死んだあとのことはわからない。けれど、この世界には何か遺したい。それには芸術作品が一番いい。

しかも、ちょうど都合よく、死は芸術のインスピレーションを与えてくれる。死ぬことで何かが創造でき、その創造物が死後も遺るということで、きわめて都合がいい。

近づいてくる死のおかげで創作ができて、おまけに死んだらどうなるのか、生きてる間はシークレットだったことがわかるわけで、やがて死ぬという事実には案外メリットが多いのです。

そんなわけで、「死ぬのが楽しみ」とまでは言いませんが、いまは死がそんなに嫌いではありません。