そいつは机の脚のところにいた。どこから入って来たのかはわからなった。いつからいたのかも分からなかった。気がついたときにはそこにいて、座っているぼくを見上げていた。

ぎょっとして固まっていると、そいつはジャンプして、というより飛んで、机の上に載ってきた。パソコンの画面の横に音もなく着地して、人形みたいにたたずんでこちらをまっすぐに見た。

これが虫とかねずみみたいなものだったらスリッパで叩くか悲鳴を上げるかしていただろう。でもそいつは虫にもねずみにも似ていなかった。ふわふわしてて白くて、メレンゲとかマシュマロみたいだった。

顔もからだも、それから手足も丸くて白くて、何かのマスコットキャラクターみたいだった。だけど大きさはせいぜい猫と同じくらいだった。だけど猫と違って二本足で立っていて、足と言ってもマシュマロみたいに丸っこかったのだけど、ぼくの顔を見てきた。

それから、そいつはしゃべることもできた。

「ぼくはアフィリン! アフィリエイトの妖精だよ」

楽しそうな高い声でそう言った。

「え、なに。どこから来た?」

ぼくは混乱してそう言った。こんな変なものが突然あらわれてパニックにならない方がおかしいのだけれど、暴れたり取り乱したりはしなかった。とりあえずどこから来たのかを訊いた。部屋のドアも窓も空いてないから、この大きさの生き物は、生き物かどうかもまだわからなかったけど、入って来れるはずがなかった。

「ぼくはアフィリエイトの世界から来たんだ。きみはアフィリエイターだね! だって、ぼくの姿が見えるんだから。さあ、これからいっしょにアフィリエイトの世界へ行こう!」

そいつ、アフィリンは急に話を進め出した。流暢な日本語で。だけどぼくはまだぜんぜん話について行けてなかったから、どこかへ行く気などなかった。

「きみは、なに? なぜぼくの部屋へ来たの?」

変なものが目の前にいてパニックだったけれど、口から出る質問は思ったより平凡で、でも他にどんなことを言えばいいか、どんなことをすればいいかわからなかった。だれだって目の前に妖精が出てきたときの望ましい対応なんてわからないはずだ。

「ぼくはアフィリン! アフィリエイトの妖精だよ。ここへ来たのはアフィリエイターの人にもっとアフィリエイトのことを知ってもらうためさ。さあ、だからアフィリエイトの世界へ行こう!」

やっぱり同じようなことをそいつ、アフィリンは言って、ぼくを誘ってきた。そう、誘ってきた。

「アフィリエイトの世界」

ぼくはおうむ返しにつぶやいた。

「そう、アフィリエイトの世界」
「アフィリエイトなら、いまもやってる」

そいつが足元に出てくるまで、ぼくはパソコンに向かってキーボードを叩いていたのだ。ブラウザで情報をリサーチして、それからテキストを打ち込んでいた。果樹園の案件で、岡山の有名なぶどうの直売所がどこなのかを書いていたところだ。おいしそうな種なしの、皮ごと食べられるぶどうの画像がデスクトップに保存されている。

「きみがアフィリエイトをしてるのはわかってるさ。だからぼくがここへ来れたんだ。でもこれから行くところはアフィリエイトの中の世界さ。モニターごしに覗くんじゃない、中の世界さ」

それからアフィリンは「さあ」と言ってぼくの方へまるっこいマシュマロみたいな手を差し出してきた。するとぼくは前の方に引力を感じて、おしりがイスから離れてからだが浮いて、パソコンの画面の中へ吸い込まれてしまった。抵抗しようにも、どうしようもなかった。

画面の四角い枠を超えて、画面のドットが大きくなって、ピクセルの一つひとつがブロックみたいな大きさに見えて、それからそのブロックみたいなピクセルはぼくの前や右や左、それから上や後ろに回り込んだ。

ブロックというかピクセルはよく見たら前の方にたくさんあって、ぼくを避けるようにして後ろへと流れていった。というより、ぼくがその中を進んでいたみたいだ。

「さあ、ケーブルの中を通るよ」

アフィリンはぼくの左下にいて、その耳はパタパタとはためいていた。

ぼくたちは光ケーブルらしきところへ入った。そこは緑色に光るトンネルのようだった。きれいだった。もうずっと行ってないけど、ディズニーランドを思い出した。こんなアトラクションがあったかもしれない。なかったかもしれない。

「アフィリエイトの世界。だけど、これでたどり着けるのはインターネットの世界じゃないの?」

ぼくは、さっきから同じ位置関係にいるアフィリンに尋ねた。するとこう応えた。

「アフィリエイトの世界はインターネットの中にある。きみの認識する世界ではね。だけど認識できない世界では、アフィリエイトの世界はインターネットの世界の別の側面なんだ。そこには人間の意識もあれば無意識もある。感情もあるし思考もある。ただの0と1ではない世界さ」

それはサーバーと回線でつながる電子のシステムではないのだろうか? ぼくはそう思った。なのでそう訊いてみた。

「いいや、そんなに単純じゃないよ。ふふ、物事がそんなにシンプルだったらいいのにね」どうやらぼくをバカにしているみたいだ。「これから行く世界はインターネットを一つの次元として持つ多次元世界で、ぼくらはその別の次元に着地することになる。ほら、もうすぐ出口だ」

トンネルの先に白い光が見えた。ぼくたちはそのまぶしい光、まだ何も書かれてないエディタみたいに真っ白なところへ突っ込んでいった。

キーワードの丘

小高い丘に到着した。そこからは広い空が見えて、足元には青い芝が茂っていた。もうそこはぼくが現実と呼ぶ世界ではなかったはずだけれど、気持ちのいい見晴らしのいい場所だった。空がすべて薄い黄色なのは不思議だったけれど、でもそれ以上に不思議だったのは目の前の光景だった。

左の方から無数の鳥が飛んできていて、その長い足には何か横長のものがぶら下がっていて、ぷらぷらさせながら右の方へ向かっていた。無数の、それこそ何万だか何十万だかの鳥がひっきりなしに飛んできていた。

「ここはキーワードの丘。つまり、あれは全部、だれかが打ち込んだキーワードさ」

左足のあたりにいたアフィリンが言った。言われて、近くを飛んでる鳥の下をよく見てみたら、それはたしかにキーワードだった。たまたま見たそれは「一瞬で二重にする方法」といういくらか長めの、スペースを含まないキーワードだった。

「一瞬で二重にする方法」がどうなるか見ていると、ゆさゆさと羽ばたく鳥に右へ右へと運ばれていって、やがてゴツゴツした岩場へ近づいたかと思うと、鳥は「一瞬で二重にする方法」をぽいと放り出した。

放り出された「一瞬で二重にする方法」はゆるく回転しながら落ちていき、岩場で待機していた大きなカエルに食べられてしまった。

「あのカエルは?」きっとこいつなら知ってるだろう。

「あのカエルはアフィリエイトサイトでありきみたちアフィリエイターでもある。どんなキーワードを狙うか、サイトがどのくらいいい内容かで、あのカエルたちの大きさと待機場所も変わるんだ」

たしかに、よく見ると岩場にはいい場所と悪い場所があるようだ。それから、キーワードもある場所にはたくさん落ちているけれど、別の場所にはあまり落ちていない。

岩場の高いところにいるカエルは次々にキーワードにありついてたくさん食べていて、それだけ体も大きい。だけど、岩場の下の方の狭いところにいるカエルは体も小さくて、たまに鳥が間違えて落としたようなごく少ないキーワードを食べているだけだ。

しばらくその様子を眺めているとアフィリンは「だいたいわかってきたかな?」と言った。事実、ぼくはだいたいわかってきていた。

つまりこういうことだ。キーワードがたくさん降り注ぐところにいるカエルはメジャーなクエリで上位表示しているサイトで、下の狭いところにいるカエルはニッチなクエリ狙いのサイトということなんだろう。

「そうさ。正解」アフィリンは言った。「いいクエリに陣取っていれば、キーワードが食えるってことだね」

意味はわかった。だけど、それにしても異様な光景で、殺伐としている。地獄みたいだった。機械みたいな鳥がたくさんのキーワードを持って同じ方向から次々に飛んできて、大きいカエルや小さいカエルがこれまた何万、何十万といる岩場へキーワードを放り投げていくのだから。

「ここはなんだか怖いな」
「だけど、あのカエルのどれかはきみのサイトが姿を変えたものなんだよ」

だとしても、そこには長居したくなかった。だから、ぼくは他のところへ行こうと言った。

「そうかい。じゃあ、他のところへ行こう」

そいつがそう言うと、ぼくのからだがふわりと宙に浮き、四方の景色が見えなくなるほどはやく上へ上へとのぼっていき、それからまた同じくらいの速度で下降していった。

コンプレックスの川

着地したとき、目の前にはたくさんの川が流れていた。太い川もあれば細い川もあった。しかもそのたくさんの川は曲がりくねっていてめまいがしそうな模様を大地に描いている。

「ここは?」とぼくは訊いた。
「ここはコンプレックスの川さ。アフィリエイトにコンプレックスは欠かせないものだからね」

それからアフィリンは自由に動く耳であちらこちらを指差しながら、いや、耳差しながら教えてくれた。いろんな川があった。

薄毛の川もあれば脱毛の川もあり、金欠の川もあれば資産運用の川もあった。それから滔々と流れる黄河みたいなダイエットの川とか、便秘の川とか、睡眠の川とか、いろいろあって、それぞれ色と川面の様子が違っていた。

川面の様子が違うというのは、ある川は、よく見えないけれどたぶん魚か何かがたくさんいてばちゃばちゃと動いているのだけれど、また別の川は静かで澄んでいたということだ。

「水中にある栄養分か、餌になる微生物の量が違うのかな?」

ぼくはまた思ったことを訊いた。

「そういうこと。わかってきたね。じゃあ、ダイエットの川と二重まぶたの川はどちらが深いと思う?」
「そりゃあ、ダイエットの川だろう」
「正解! そっちは餌になるものがたくさんあって、魚がたくさんいるんだ。きみみたいな魚がね」

アフィリンはぼくの顔を下から覗き込んでいたような気がしたけれどぼくはそちらを向かずに川を見ていた。水は上流から下流へどんどん流れていたけれど、川の形は変わらなかった。

マインドの山脈

次に連れて来られたのは地面からニョキニョキと石みたいなものが無数に伸びている地形の場所で「マインドの山脈」というところだった。

だけど、山脈という割にはその場所は鍾乳洞の天井を逆さにひっくり返したような見た目で、一つひとつは山というより突起物とか塔とか呼んだ方がしっくりくるようなものだった。

「アフィリエイトではマインドが大事とよく言われるでしょう? これがマインドだよ。一つひとつがどれも別のマインドなんだ」

また説明してくれたところによれば、それぞれの山というか突起というか塔というか、それらには名前があった。「すべて自分のせいと思え」もあるし、「サラリーマン思考を捨てろ」もあった。「他人と違うことをやれ」もあったし、「凡事徹底」というのもあった。

他にも「まず稼ぐと決める」とか「自己投資を惜しむな」とか「諦めないでやり続ける」とか「ポジティブ・シンキング」とか「後悔するな反省しろ」とか「褒めたくなる人間と酒を飲め」とかいろいろあった。

それぞれ太さも高さもバラバラだったけれど、どの岩肌にもたくさんの蟻がいて、みんなそこを登ったり降りたりしていた。

「あれは何をしているんだろう?」
「あれは蟻さんたちが材料を持ってきて、マインドを構築しているんだ。だから、どれもだんだん高くなっていってる」

なるほどと思ってあたりを観察していると、建設中のものに混じって解体されているのもあるのに気がついた。それは太さの割に高さが低くて、おまけにてっぺん部分がいびつな形になっている。そこから資材が、原料が何かはわからないけれど、持ち去られているみたいだ。

これもアフィリンに訊いてみると、それは要らなくなったマインドということだった。「入社後3年はがまんしろ」もあったし「親を安心させたい」もあった。「勉強をがんばると人生の選択肢が広がる」とか「家族のために働く」とか「会社に迷惑はかけられない」もあった。でもみんな壊されていた。

「新しいマインドに作り変えられてるんだ」
「そうさ。古いマインドは壊されて新しいものに生まれ変わる。でもいま建設中のものもたぶんいずれは壊されてまた別のものになる。それは都会のビル群と同じだね」
「ところであれは? やたらキラキラしてて立派だけど」

それは他のものに比べて圧倒的に大きくて、キラキラしていた。ピカピカと光を放って、しかもそれを乱反射させてて、たくさん蟻がくっついているのにその間から漏れる光だけで眩しいくらいだった。

「あれには名前がないんだ。ただキラキラしているだけ。とにかく……そう、キラキラしてるんだ。キラキラが好きな蟻はたくさんいるから、どこかからキラキラのかけらを集めてきて、それを積んでいる。あれは永遠に壊されることはないだろうね」

カセゲナイの沼

マインドの山脈からそう遠くないところに不気味な沼があった。蟻地獄のような沼がいくつもあって、どろどろしたタール色のものがすり鉢状になってて、中心からどんどん吸われているみたいだった。

どうやらここはマインドの山脈とは表裏の関係になってるようで、こちらはアフィリエイターにとってはよくない場所みたいだった。それは見ただけでわかった。

「ここは全体がカセゲナイの沼と呼ばれている」と、今度はもう聞くまでもなくアフィリンがしゃべり始めた。「だけど、一つひとつの沼にもっと詳しい名前があるんだ」

「どんな?」

するとアフィリンがまた律儀に名前を教えてくれた。たとえばこんなのがあった。

インデックスされないの沼に、モチベーションが上がらないの沼、迷いの沼というシンプルで大きいのもあった。ノウハウコレクターという沼もあったし、上位表示できないの沼とか作業スピードが上がらないの沼もあった。

「ここに落ちたらアフィリエイターとしてはしんどい思いをしそうだ」

ぼくはどろどろと底なしに見えるそれらの大きな沼を見て怖くなった。何しろ大きいのだと一つだけで学校のグラウンドくらいの大きさがあったから、怖くなって当然だ。

「ここには落ちたくないかい?」

アフィリンがぼくに訊いた。「もちろん、落ちたくない」と言った。だれだってそう言うだろう。

「だけど、残念だけど、実はここがきみの終着点なんだ。ぼくはきみをここへ連れてくるためにこの世界へと案内したんだよ。ごめんね」
「ここが、終着点?」

何かの冗談かと思ったのでそう聞き返した。アフィリンの顔ももう一度見てみた。だけど笑っていなかった。赤い瞳は丸くてきれいに澄んでいたけど、それだけに感情が読み取れない。余計に怖くなった。

「さよならだ」
「嫌だよ。ここには残らない。もう十分だから、帰らせてよ」

しかしアフィリンはさっきまでみたいにぼくを連れて飛んでくれなくて、しばらく黙っていた。目の前の沼はどんどんとドロドロの何かを吸い込んでいる。

「行こう」とアフィリンが言った。

ぼくの足は宙に浮いて、このまま帰れると思った。やっぱりここが終着点だなんて冗談だったんだと思った。そりゃそうだろう、アフィリエイトの妖精がなんでぼくをこんな不気味で嫌なところに置き去りにするだろうか。

ぼくとアフィリンはふわふわと浮いて、沼の上空まできた。ぼくはそのままもっと上へ浮上して、また光ケーブルの中を通って自分の部屋へ戻れると思った。だけどからだはそれ以上浮かなかった。逆にからだが重くなってきた。

ぼくは少しずつ下へさがり、足元にいたアフィリンはそのままで、ぼくを見下ろす格好になった。赤くてきれいな澄んだ瞳で。

「ごめんね、エアーさん」エアーさんというのはぼくのことだ。「ぼくはアフィリエイトの妖精だと言ったけど、実のところ、きみにとってはもっと別の言い方をした方がよかったのかもしれない。妖精というのは誤解を招く言い方だったかもしれない」
「おまえは、何なんだ?」

だんだん下降しながらぼくはそいつに訊いた。

「きみたちの言葉でいうなら、一番ぴったりする表現はきっと」

――死神。

そう聞こえたような気がした。本当はもう聞こえてなかったのかもしれない。そのくらい、もうぼくはそいつからは遠ざかっていた。つまり、落下していた。

やがてぼくは真下にあった沼に落ちた。あまりにドロドロだから、外から見てもきっと飛沫ひとつ飛んでなかっただろう。

沼の中で考えたこと

中に入ってみるとドロドロは思ったより暖かかった。温泉ほどではないけれど、少し冷めたお風呂くらいの温度で、冷たすぎもしないし熱すぎもしなかった。

そのせいもあってか手足はドロドロと一体になって、つまり溶け合ってしまったような感覚になった。からだがなくなったみたいだった。目はつむっていたから何も見えなかった。だから、五感がなくなってしまったような気がした。

ぼくはドロドロの中に沈みながら、たぶん沈んでいたんだと思うけど、沈みながら、自分の部屋のことを思い出した。いつも眺めていたパソコンのモニター、その下の方にあるりんごのマーク、それから明るい色の木製のデスクに、ランチマットの上に置かれた無線接続のキーボードなどを。

それから、そんなものの前にあるはずのぼく自身のことを考えた。

ぼくはアフィリンに連れられてアフィリエイトの世界に来たけれど、ここにいるぼくは体を持ったぼくなのだろうか、という疑問が湧いてきた。もしかしたらぼくの体は、もしかしたらいつもの意識も、いまもまだあの部屋にあるのかもしれない。

だから家族のだれかが部屋をのぞいたとしても何の変哲もなくて、それどころかこの先何週間でも何ヶ月でも何年でも何十年でも、何の変哲もなくて、そのままあっちのぼくはぼくとして生活し続けるのかもしれない。

だとしたら、いまドロドロの中にいるぼくは何なんだろうと思った。からだもなくなってしまったみたいだし、どこへ行くのかもわからない。

こんな話がある。宇宙はこの先、どんどん無限に広がっていって、形あるものはみんなブラックホールに飲み込まれて、でもブラックホールもいつかはぜんぶ電磁波だか何だかを吐き出すことで蒸発して、消えてしまうんだそうだ。

そうすると宇宙の中には何もかたちあるものもなくなるし、熱もなくなって、動くものとか暖かいものがなくなってしまう。そのとき、宇宙からは時間が消えるんだとか。何も運動せず、何の変化も反応も起こらないなら、そこには時間がないのと同じだっていう理屈だ。

その話みたいに、ぼくもドロドロの中でもし考えることをやめたのなら、ぼくが消えてしまうような気がした。からだもあるかどうかわからないし、何も見えないし聞こえないし、こうなったら頭の中だけが頼りだと思った。

頭の中で考えるということを続けていれば、その間だけは何とか消えずにいられるだろうと思った。だから、いろいろなことを考えた。アフィリンのことも考えたしアフィリエイトのことも考えた。むかしやったピザ屋のバイトのこととか、永久機関のこととか、クジラやイルカのこととか、一回だけデートして振られた女の子こととか。

そうしてるうちにどのくらい経っただろう。時間はまだ消えてなかったはずだから、たぶん時間は経っていたと思うのだけど、どのくらい経ったかはわからなかった。15分かもしれないし2時間かもしれない。3日かもしれなかった。

でもとにかくぼくは消えずにいられた。あの電車がやってくるまで。

黒い電車が迎えにきた

ドロドロに沈んでいたからもう目は見えないと思っていたし、少なくともぼくは目をつむっているつもりでいたのに、小さな光が遠くに見えた。

その光は列をなし、こっちへ近づいてくる。深い、どこまで続いているかわからない闇の中を、こっちに近づいてくる。やがて音が聞こえた。カタン、カタンと。

光の列は窓から漏れる車内の光だった。つまりそれは電車だった。闇の中から電車がやってきて、カタン、カタンとこっちへ近づいてきていた。カタン、カタンと聞こえた。音も戻ってきていた。

電車は真っ黒だった。よく見ると高崎線の電車みたいに見えたけれど、でもみどりとオレンジの線はなくて、真っ黒だった。こんなに真っ黒な電車は、蒸気機関車は別にして、他にはないだろうと思った。

ドアが開いた。乗った。

乗ったということは、つまり、ぼくに足があったということだ。ついでに言えば他の部分もあった。目と耳とからだが戻ってきてくれて、あとは口と鼻だけれど、しかしそれもあるだろう。

おまけにここはもうドロドロの中ではなかった。ぼくは黒い電車の車内を見回した。車内は高崎線と同じだった。色も造りも。

しかし先に乗っていた人たちは普通の人間ではなくて、いや、人間は人間なのだけれど、からだがなかった。顔も頭もなかった。そこにいるのはわかっているのに、触れるようなからだはなかった。

膝からしたをぶらぶらさせながら、3人の子供がならんで座っていた。からだはなかったけれど、雰囲気からして女の子のようだった。透明な女の子たち3人はぼくのことを珍しそうに見ていたので、話しかけてみた。

「きみたちはどこから来たの? なんで体がないの?」

すると女の子たちは、どこから来たのかは知らないと言った。自分がどこから来たか知らないなんて不思議だと思っていたら、女の子たちは2番目の質問にこたえて、体がないのは生まれなかったからだと言った。

「生まれなかったから?」

よくわからないからもう一度問い返すと、あたしたちは生まれなかったからからだがないのだと繰り返した。生まれた人間はからだがあるけれど、これまで一度も生まれなかった人間だからからだはないのだと言った。

それは死んでしまったということではないの? お母さんのお腹の中にいるときに死んだの? そう尋ねてみると、なんでそんなに物分かりが悪いのと言わんばかりの剣幕で、女の子たちは、自分たちは死んだのではなくて最初から生まれなかったのだと言った。その口調には、死んだ人といっしょにしないで欲しいというニュアンスもこもっていた。

それから他の人にも話を聞いてみたのだけれど、中には死んだ人もいた。座席の端っこに一人で座っていた痩せ型の50歳くらいの男の人は、少し前に死んだと言っていた。死んだあとは2日ほどして火葬場に運ばれ、そこでからだの方は強い火力で燃やされ、骨と灰と煙と4つの銀歯になって、本人はこの電車に乗ったのだという。

ぼくはドロドロの中を消えずにいられて、それで電車にまで乗れたのだから少し希望を持ち始めていたのだけれど、同じ車両にいる人たちは生まれなかった子供と死んだ大人だとわかり、どうやらこれは安心できないぞと思い始めていた。

そういえば、窓の外は真っ暗なままだ。

相変わらず、ここはドロドロの中なのかもしれない。

シートに座って神妙な顔で考えていると、連結部のドアがあいた。見ると、車掌だった。車掌もやっぱり、パリッとした制服を着ているのに、からだはなかった。この車内ではからだがないのが当たり前なのだ。ある方がおかしくて、空気が読めてないんだろう。

「あなたはどちらまで行かれます?」

車掌がぼくの前で立ち止まって尋ねた。ぼくは「これはどこへ行くんですか? どこへ行けるんですか?」と聞き返した。それがわからなければさっきの質問には答えようがない。

「この電車はすべての場所へ行きます。どこへでも行けます」

これが車掌の答えだった。だけど、具体的な地名とか駅名を言ってもらわないと何もわからない。

「どこへでもって、たとえば高崎へも? 熊谷へも? 宮崎や山口や、それからロンドン、クアラルンプール、ダッカへも?」

「行きます。世界のどこへでも行きます。月や太陽へも行きます。他の銀河へも行きます。宇宙の反対側にも行くし、その途中もぜんぶ通ります。生きてる人の世界も行くし、死んだ人の世界へも行くし、どちらでもない世界も行くし、想像できるところへも行くし、想像できない世界へも行きます。すべてへ行きます」

「その中にはぼくの自宅も含まれている? つまり――」と、ぼくは自分の住所を伝えた。
「もちろんです」
「到着予定時刻は?」
「わかりません。この電車には規則性がないので」

規則性がない電車なんて聞いたこともない。レールの上を規則的に運行するからこその電車だろうに。しかしどうやらこの電車を動かしているのはJRでもなければ東急でも近鉄でもないようだし、期待するだけ無駄かもしれない。JRも東急も近鉄も、からだのない車掌を雇うことはないだろう。

それからぼくは一人で座ったまま窓の外を見ていた。まだ真っ暗のままだった。

この電車はどんな電車だかよくわからないけれど、さっき車掌は、この電車はどこにでも行くのだと言っていた。ぼくは沼の底のドロドロの中にいたわけで、普通の電車なら絶対に来ないはずのところだけど、この電車だからあんなとこまで来てくれたわけで、ぼくはもっとこの電車に感謝しなければいけないのかもと思った。

そんな気持ちは窓の外に光が見えてきたらもっと強くなった。真っ暗だった窓の外には景色が見えた。しかもナントカの丘だのカントカの川だの、変なところじゃなくて、一軒家とか信号とか車のヘッドライトが見えるところだ。

当たり前の世界をまた見ることができて、ぼくはとても嬉しかった。生き返ったような気分だった。だけどそれは早合点で、ぼくはまだ生きてる人間とはだいぶ違った。電車はレールの上ではなくて一軒家の上空とか国道の上とか地面の下とか塀の横とかマンションの中とか百貨店の中とかスーパーの中とかをおかまいなしに走っていった。

しかもそんな見慣れた景色を窓の外に見られたのはほんのいっときのことで、電車はまた変なところへと入り込み、よくわからないところを走った。たとえばコップのふちとか円周率の中とか天国と地獄のあいだとかを。

そうしてるうちにぼくは眠くなり、うとうとしてきた。隣にはどこかで乗ってきた、これまたからだのない人がいたのだけれど、その肩にこっくりこっくり首をもたせかけ、眠ってしまった。

再び自分の部屋

次に目が覚めたとき、ぼくは自分の部屋にいた。パソコンの前の机で、キーボードに突っ伏すようにして眠っていたようだった。

薄い色の木製のデスクがあって、使い慣れたマウスもあるし、トラックパッドもある。モニターもある。部屋には電気がついていて、ぼくが腰かけているのは黒いチェアーだ。

手もある。足もある。服も着ている。何もかも普通だった。

あれは夢だったんだだろうか? ぼくは考えた。アフィリンが見えたところからぜんぶ夢で、連れて行かれた場所もぜんぶ夢の中のことだったのか? それともぜんぶ本当のことで、眠ってるあいだにこの部屋に到着して、このからだに戻ってこれたんだろうか? わからない。

それにしても、夢だったにしても、ずいぶんと怖いところだった。アフィリエイトの世界なのに、どこもずいぶん怖かった。だけど、アフィリンは、アフィリエイトの世界は多次元の中のひとつと言っていた。だから、怖いところばかり見させられたんだろう。なんせ、あいつはたぶん、死神だったのだから。

きっと見方によってはあの丘も川も山脈も、また別のものになるんだろう。丘でも川でも山脈でもなく、まるで別のものに見えるのかもしれない。鳥やカエルや魚や蟻ではなくて、別のものに見えるはずだ。

だけどあの沼の中と電車はそう悪いものではなかったよな、とも思った。そのときは怖いような気もしたし不気味な感じがしたけど、思い出してみると妙に心地いいところもあったのだ。

もしかしたら、ここにいるぼくはあのときとはまた違うぼくで、あのときのぼくはあのまま電車に乗っていて、他の乗客と同じくからだを失い、今もどこか別のところを走っているのかもしれないけれど。

(了)